◇後の祭りにしない
この夏、阿波踊りのドタバタ騒動がほうどうされたが、祭りはいつから観光イベントになってしまったのだろう。
人は天地開闢(かいびゃく)以来、森羅万象に神という名を付け、事あるごとに願い、恐れ敬うことをする中から自然発生的に人の中に生まれたものが祭りだ。八百万の神は常に人の周りに寄り添い人と共生してきた。鬼など妖怪やもののけも同じ共生関係であったとも言える。
時の権力者がそうした祭りを人心をまとめ上げる手段に用いたが、祭り=イベントではないにも係わらず、行政が観光振興の名の下に主催者になる。結果イベントに早変わりしてしまうのだ。主体が行政に変われば、当然のごとく住民は客体として、参加することが原則である祭りから見る祭りに変わる。
最初から行政主導の観光イベントもあるが、住民主体であったはずの祭りが、担い手が減ったとか、金が出せなくなったとして行政に転嫁し、観光イベント化していくケースも多く、本来有るべき暮らしの文化からとおざかっている。昨今は、信仰や地域文化に依拠しない「まつりイベント」が時代の流れや観光振興ニーズとして全国で勃興しているが、中世以降、特に江戸期に生まれた信仰に寄らない「まつりイベント」は、見物人ありきの姿勢を貫き、派手(華麗)な仕立てで大きな資金とエネルギーを有する。政治を祭事(まつりごと)というように、地域の統治者が祭りの力を利用したケースが多々あることを認識しておく必要がある。
劇場化した祭りは瞬間風速の賑わいで終わる。地域活性化だとの理由で祭りの本質・伝承を「きれいごと」に変容させて「後のまつり」で済ませて良いのだろうか。
◇観光は究極の「風土産業」
近頃の大手旅行社や宿泊施設は高価格帯のメニューを出していることでも判るように、客が食指を動かすのは単価だけでは無い。
客の人生の一コマに感動を提供することが観光に携わるものの使命。
体験メニューを揃えれば良いなど軽薄なプログラムの展開や、農林漁業体験を折り込めばグリーン・ツーリズムと考える主催者やエージェントなど、いまだに既存観光の書き換えや真似事が多数存在し玉石混合だ。
風土ツーリズムは地域の「人」に着目した新たな風土産業のひとつであり、外貨獲得のため、場(ばか)当たり的な対応は、絶対に避けるべきと考える。
住人や環境、地域文化、歴史、産業が風土を形作る。故に風土ツーリズムは自地域において総合的なアプローチから“人・物・金を地域内循環させるシステム”を構築し展開し、それら様々な知恵を訪問者に伝えることが本旨であろう。
「風土産業」は、環境時代の世紀にもっともふさわしい理論であるといえる。今様に言い替えればローカリゼーションであり、施策の根幹となるものは、地球環境・エネルギー・食糧・教育・福祉など暮らしそのものだ。そのため企画段階から実施に至る過程に、市民協働のプロセスを導入し、地域経営の透明性と総合戦略の基盤づくりを図る必要があり、地縁集団を中心に地域間・行政間・異業種連携はもとより、NPOや地域づくり団体、さらに人と人の「つながり」により生み出される力が不可欠となる。
都市から外れた田舎の町は、「どんな暮らしがあるか」「どんな人が居るのか」「どのよな夢が実現できるか」など暮らしの質を見極められ選択される時代になっている。観光はその選択の糸口となるもので、経済効率だけではなく、「ここには自分の居場所がある」と観光客に感じてもらうことが重要だ。