世界では農業人口が増えているのに、何故、日本では減り続けるのでしょうか。
昭和36(1961)年に施行された「農業基本法」は、他産業との所得格差や農業の地位向上が最大の目的であり、戦後の食糧危機と経済復興が一段落し、高度経済成長の時代へ突入した時期と重なっています。そして、故井沢八郎の『あゝ上野駅』がリリースされた昭和39(1964)年になると集団就職列車で農村の労働力が都市へ吸い上げられた結果、慢性的に農業・農村の担い手が不足していき、高齢化する集落には「限界集落」という悲しい名前を付けられることになりました。
戦後の食糧増産という役割を担った同法は、高度経済成長の真っ直中で、食糧の安定確保の目途が付くころには3K職場のひとつに挙げられ、農林漁業の後継者に翳りが出てきました。そこで農業構造改善による生産性向上やサラリーマン並みの農家所得の確保を謳い、従事者の農業・農村離れの防波堤としました。
その結果、平地農業の大規模経営による省力化や生産性の飛躍的な向上が図られた一方で、消費者の食の変化による米離れや牛乳消費の低迷にはじまり、あらゆる農産物が低価格に推移し、輸入など他の要因も関連する中で生産地は疲弊していきました。
大規模化の流れから外れた中山間地域の農業・農村には「中山間地域直接支払制度」が導入されましたが、衰退はさらに深刻化し「限界集落」と言われ無き名称をいただくことになりました。
平成11(1997)年に施行された「食料・農村・農業基本法」は、食糧ではなく食料と文言が変えられました。つまり主食の穀物は脇において輸入も含めた食物全体を考えれば良いと言ったものだと穿った読み方をしていますが、日本の食料自給率は昭和36(1961)年の79%から、平成19(2007)年には40%に半減し、農業従事者数は昭和60(1985)年の11,629千人から、平成19(2007)年では2,024千人に激減したのです。
命の生産現場である農村。国民の食を賄っている農業を、単に産業という範疇の中で論じている限り出口は見いだせません。政府の政策批判するのは容易ですが、自らの地域を省みて我々は本当に農業をベースに暮らすための環境づくりをしているでしょうか。
現在、まだ少数ですが国民の中で、農業や農村に目を向け始めています。団塊世代の田舎回帰はともかく、若者の憧れになりつつある農業・農村を有する地方自治体が地域資源と認知しない限り、新たな施策は生まれません。
平成20(2008)年末に、生活防衛のための緊急対策のひとつとして、農林水産省が農村活性化人材育成派遣支援モデル事業(通称:田舎で働き隊)を発表したところ、その要望は予定していた800人をはるかに越え、2000人以上となりました。
雇用不安という大きな要素はあったものの若者の間で、農村への関心が高くなっている事実が明らかになった一方で、農村部における同事業の期待の大きさを感じます。
加えて総務省でも平成212009)年度より特別交付税措置で行う「地域おこし協力隊」事業を創設し、市町村の支援に乗り出しました。
長野県飯田市では平成10(1998)年より、農村の悩みと都市住民の願いをマッチングするために、互いをパートナーと認め、WinWinの関係づくりをする『ワーキングホリデー』事業を進めていますが、当初から若者に人気があり前述した事業の成果は当然の帰結といえます。