真澄は盗賊に書いたものを取られたと言っているが、金はともかくスケッチや日記まで盗まれたのか疑問が生じる。資料がなければ推論しかないので、正確な史料とならないことをあらかじめご承知いただきたい。
昔、尹良親王が御所貝津を立たれ、信州(長野県)に向われた時、杣路峠から眺めた信州が山また山の難路であるので、大野瀬の柏洞に御殿山に女官たちを残して行かれたと伝えられている。この山は、土地の人でさえ迷う程の難所で、敵の目を逃れて隠れる場所としては最もよい所で、ここに館を建てたことから御殿山と呼ばれるようになった。屋敷跡といわれる所は、今も木は育たず、昔から女の人は絶対に入ってはならないと言い伝えがある。
ここから峰伝いに道標のように点々と大きな石が置いてあって、これをたどって行くと根羽村月瀬に出られる。
真澄は難所を越え、街道沿いの月瀬神社の「月瀬の大杉」を見ながら根羽村にはいった。
現在は月瀬神社は無く「月瀬の大杉」が残るのみだが、樹齢は1500~1800年と言われ、根回りは14Mある長野県最大の大杉だ。この大杉は江戸城本丸再建に供出を求められたり、明治の神社統合の影響で土地ごと売られそうになったり何度も危機を経験しているが、地元住民の熱心な保護活動によって生きながらえた。
この杉の大枝が折れるときは、天変地異や疫病が発生する前兆と伝えられており、日清・日露、満州事変など過去の戦争や疫病の発生前に実際、大枝が折れている。2014年にも大枝が折れたが、幸い厄災は発生しなった。
根羽村史に「三河の文人菅江真澄、杣路峠を越え入信し根羽村に泊まる」と一行だけ書かれている。
昔、尹良親王が御所貝津を立たれ、信州(長野県)に向われた時、杣路峠から眺めた信州が山また山の難路であるので、大野瀬の柏洞に御殿山に女官たちを残して行かれたと伝えられている。
この山は、土地の人でさえ迷う程の難所で、敵の目を逃れて隠れる場所としては最もよい所で、ここに館を建てたことから御殿山と呼ばれるようになった。屋敷跡といわれる所は、今も木は育たず、昔から女の人は絶対に入ってはならないと言い伝えがある。ここから峰伝いに道標のように点々と大きな石が置いてあって、これをたどって行くと根羽村月瀬に出られる。
真澄は難所を越え、街道沿いの月瀬神社の「月瀬の大杉」を見ながら根羽村にはいった。
現在は月瀬神社は無く「月瀬の大杉」が残るのみだが、樹齢は1500~1800年と言われ、根回りは14Mある長野県最大の大杉だ。この大杉は江戸城本丸再建に供出を求められたり、明治の神社統合の影響で土地ごと売られそうになったり何度も危機を経験しているが、地元住民の熱心な保護活動によって生きながらえた。
この杉の大枝が折れるときは、天変地異や疫病が発生する前兆と伝えられており、日清・日露、満州事変など過去の戦争や疫病の発生前に実際、大枝が折れている。2014年にも大枝が折れたが、幸い厄災は発生しなった。
根羽は「甲陽軍艦」や「信長公記」などで「禰羽根(ねばね)」として登場する。ネバネは「夜寝る」という飯田地方の古い方言で、「ネバネに行く」は「宿場に泊まる」という説があるが、宿場の発生と合わないことから、平安末期の「賀禰郷」の外れ「賀禰羽根」(羽根=跳ね=末端)からが語源とするようだ。月瀬も胎背(川が大きく歪曲しているところで「胎む」からきているとか。誠に字や小字は面白いが理屈が通っている。
根羽村史に「三河の文人菅江真澄、杣路峠を越え入信し根羽村に泊まる」と一行だけ書かれている。
明治の根羽宿は「中馬」で賑わい、馬宿が14、煮売り(飲食店)30軒、小売り84建があった。真澄が逗留した天明3年も、これに近い規模ではなかっただろうか。村も400頭の馬を所有し、流通の要となっていたようである。
信州に入って最初の宿場は、伊勢・秋葉山・善光寺へ行く信仰の道が根羽宿に集中した要衝であったことが繁栄をもたらしたのだろう。伊能忠敬も根羽宿で別ルートから来る測量隊と合流している。
宿の飯はどうだったか当時の根羽の食事情から推理してみる。
〇豆味噌の味噌汁
〇源助菜かたくわんの漬物
〇豆腐
〇煮豆かひたし豆
〇山菜(山村はまだ早春だから、有れば塩漬けか)
〇おからと根菜の煮物
〇メインディッシュは、イワナかウナギ
〇麦飯
まあ粗末だが参勤交代で歩く中山道と違い本陣はなかったから、こんなところだろう。
道中の弁当は竹筒に足助塩を詰めて焼いた「焼き塩」や味噌と握り飯にたくわんが、宿でもらえた弁当ではなかったか?
その後の塩尻までの足取りが書かれた書物はなく、真澄を顕彰している様子もない。柳田も度々、飯田や長野県内を訪問しているが、本洗馬で折口とともに真澄を論じただけだ。
次は寒原(かんばら)峠と治部坂峠に挟まれた浪合の宿だ。