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奈良時代の花見は梅だった(折口信夫「花の話」から)

折口信夫は、奈良朝の歌は、桜の花を賞めていない。観賞用ではなく占いのために植えたと言っている。桜は暗示のために重んぜられた。花が散ると、前兆が悪いものとして、早く散ってくれることを迷惑とした。その心持ちがだんだん変化していって、桜の花が散らないことを欲する努力となっていった。(花の話より)

昨日、鎮花祭のことに触れましたが、パッと散ってしまう桜は困る。散らないでくれと願った祭りが鎮花祭ややすらい祭(花鎮め)なのです。

桜は農事と密接に関係しているとしましたが、鎮花祭は念仏踊りや田楽に影響を与えているそうです。

諸説はありますが、サクラの「サ」は田の神、「クラ」は磐座と言われます。つまり桜は穀霊を迎える依代の花として農事では大切だったのです。

ゆえに稲を「サ」として、「さ」なえ(早苗)、「さ」おとめ(早乙女)、「さ」なぶり(おさなぶり)という田んぼ仕事に係わる農事で活用されてきました。

穀霊神である「田の神」は、その地に豊穣をもたらすと、山に登り、桜が咲く頃に降りてくるわけです。

なぜ山に登るか?
豊穣をもたらすとさすがの神様もヘトヘトになります。それを「気が枯れる」と言います。そこから「けがれ」という言葉も生まれました。

面白いのは中国地方の田の神様(サンバイさん、ノーガミさん)が山から帰るルートです。田植え時期が来ると田の神様は、魚の背に乗って川を降りてきて、田の水口(みなぐち)へ至るすです。

飯田でも風習でありますが、田んぼの取水口に三把の苗とぼた餅を供える(地方により苗以外は供える食べ物が違う)のは、取水口にきていただいた田の神様をおもてなししているわけですね。

下の写真は飯島町のおさなぶりです

飯島町本郷のおさなぶり

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