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菅江真澄考異聞「尹良親王伝説」

 真澄考9で触れた”尹良(ゆきよし)親王”は「信濃の宮」と呼ばれた。
『並合(なみあい)記』には、「応永四年(1397)、世良田大炊助政義は桃井右京亮宗綱と議して妙法院宗良親王の御子兵部卿尹良(ただよし)を上野国に迎え奉る。此尹良親王は遠江国飯谷が館にて誕生なり、御母は飯谷井伊介道政の女也。延元元年(1336)、尹良の御父宗良親王を道政主君と崇奉り遠江国に迎え旗を揚げて京都将軍と挑戦、尹良は大和国吉野に御座て御元服の後、正二位中納言、一品征夷大将軍、右大将兵部卿親王に成らせ給う」
との記述があり、宗良親王の子が”尹良(ただよし)”で、その子どもが”良王(ゆきよし)”だということだ。
さらに親である宗良親王は弘和元年/永徳元年(1381)に吉野に戻って新葉和歌集を長慶天皇に奉覧して以後は、確たる記録が残されておらず、没した場所も入野長谷説(伊那市長谷村)から河内山田説(大阪府枚方市)、美濃国坂下(岐阜県中津川市)ほか越中・越後と諸説があり、墳墓も長野県大鹿村大河原釜沢、静岡県井伊谷宮、岐阜県中津川市にある。
 このあたりは南北朝の動乱期であり敵方から墓を悟られぬようしたのかもしれない。
 宗良親王は「信州大王」と比定されており、その子どもは「信濃の宮」であっても不思議ではないが、まとまった伝記であるはずの『浪(並)合記』や『信濃宮伝』は、内容に矛盾や時代錯誤が多く、近世前期成立の偽書と推定されている。
 近世紀とは明治であろう。明治13年(1880)、明治天皇西巡の際、勅命を奉じて飯田に来た品川弥二郎に対し、浪合村の増田平八郎が松尾多勢子(勤王ばあさんと呼ばれた飯田出身)に仲介を頼み懇請したところ、天皇は直ちに侍従西四辻公業を勅使として浪合に派遣し、親王の事績を調査させた。その結果、翌14年(1881)2月宮内省によって現墓が治定された。
 時は明治の御維新。新政府としては天皇の治世となったことを喧伝するチャンスと考えたかもしれない。
 この時の資料のひとつが『並合記』であったと推理するが、この書物がくせもので、とにかく年号日付がめちゃくちゃであり信用にかけること甚だしい。

 しかし稲武の安藤泰氏は『稲武の歴史』で実在したと断じる。その理由は、
 ? 井伊家系図に宗良親王と井伊道正の娘、駿河姫の間に生まれた第二皇子として尹良親王の名前があること。
 ? 『浪(並)合記』に伝えられる親王の最後は応永31年8月15日浪合で士賊に襲われ防戦かなわず宮は傍らの民家に入り自ら火を放ち自死したとあるが、応永31年だと井伊家菩提寺の龍譚寺にある位牌では、応永3年34歳没となっていること。
 ? 生まれたのは大鹿村大河原で、阿島(喬木村)城主の妹紀伊子との間に宗良親王が51歳の時の子どもであること。
 ? 宗良親王が崩御したのは元中2年(1385)で、尹良親王が23歳のときであり必然的に尹良親王は貞治元年(1362)生まれとなること。ゆえに公式に書かれることがなかった。
 ? 応永31年では71歳となり不自然なこと。
 ? 応永3年3月24日は親王の側に常に居た青山師重・綱重親子の亡くなった日と合致するし、師重の父も12日後に殉死していること。
 ? 阿智村浪合の治部坂峠の治部は親王の家臣であった近藤治部で、親王が危うくなったとき身代わりとなり敵に向かい討ち取られ、その隙に親王は民家に駆け込み自害した。 このため親王は浪合神社に祀り、近藤治部は治部坂と命名された等々。
として浪合で自死した年は応永3年3月となり記述間違いと断じている。
 それでも親王の名は、他の信用すべき同時代史料にないことを理由に、その実在を歴史学者は否定しているのだ。

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