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菅江真澄考異聞「尹良親王とユキヨシ様信仰」

 「幻の宮」とも言われる謎の親王を少し解体してみよう。
 尹良の「尹」の通常の読みは「いん」であり「ゆき」とは読まない。律令制の弾正台長官あるいは左大臣を指す。
 「尹」は部首とすると「しかばね」である。これはいきなりミステリーだ。
 白川静博士は「尹」は「呪杖」だと言っているが、この尹に「人偏」を付けると「呪杖」を持つ人「伊」となり、伊那地方を支配する人間となる。
 『鎌倉大草紙』には南朝の某宮が浪合で戦死した記述があるが、飯田市上下久堅を領土としていた知久氏の伝記では、足利直義の落胤「之義(ゆきよし)」が応永3年3月24日に浪合で戦死したと伝えている。
 「ゆきよし」の名も尹良・行儀・之義・行良・由機良とあり、読みもユキヨシ・タダナガ・タダヨシ・マサナガなどいろいろあり、どれが正しいかもわからない。
 尹良親王墓がある浪合神社の延宝から正徳頃までの棟札には、祭神を行義権現と記している。

 さて謎は深まるばかりだが、さらに三遠南信エリア(伊那谷・三河・遠江)にかけて「ユキヨシ様」が祀られているのだ。
 「ユキヨシ様」について柳田国男が「東国古道記」で軽く触れているのみで、民俗学的にも文献は少ない。
 「東国古道記」の中で柳田は「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神(一種の道祖神)へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」
柳田は尹良伝説を史実化していく過程で、御霊信仰や津島信仰へ結合・変化していったと見る。

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井上真史の調査によると
 〇ユキヨシサマは長野県南信地方から、愛知県三河地方に分布するカミである。
 〇ユキヨシサマを単体で祀る神社はなく、多くは神社の境内社、または塚として祀られる。
 〇ユキヨシサマは交通のカミであり、旅の安全を守るモノである。
 〇ユキヨシサマの分布と花祭、雪祭、霜月祭などの湯立て神楽の分布は多く重なる。
  ただし、それら祭りの登場神仏の中にユキヨシサマの名はない
 〇ユキヨシサマの祭りは自分が調べた範囲内では今現在存在していない。
 
■ユキヨシサマ伝承
 ・長野県松尾村(飯田市松尾)『伊那』302号(伊那郷土史学会)
   親王の草鞋の緒が切れたので、近くの百姓に借りにいったが断られた。この百姓の家は
  それ以来、親王の祟りを受け、足の生目が悪い。代々足に何らかの祟りがあった。

 ・長野県飯田市松尾 旅と伝説 8巻3号通巻87号
  宗良親王の子、尹良親王が松尾村を通る際、草履の紐が切れたので、一足譲ってくれるよう百姓に頼んだが断られ、裸足のまま去って、山中で土匪に殺された。その後、松尾村では祟りで、足を病む者が絶えなかったため、『みきよし様』といって社に祀られた。

 飯田市八幡神社のユキヨシサマを訪ねた際、神職も名を知らなかった。

・長野県飯田市  『伊那』668号(伊那史学会)
  身分の高い人の草履が途中で切れたので、家臣が近くの農家にもらいに行った。しかし農民はあげず、そのためこの主従は素足で浪合に行って、そこで賊に殺された。それから先、この農家では代々足を病んでいる。

 ・長野県浪合村 『伊那』673号(伊那史学会)
  親王が切腹をした。その時敵方の武士が気の毒に思って介錯をした。その時、親王の血が足についた。以来、この一族のなかで胎児の5人に赤いあざが出来る。また神社の分社を祀るようになった。

 ・長野県浪合村 『伊那』673号(伊那史学会)
  親王の祟りがあると言われている。親王は追われて自殺したがその子供は成人するまで隠れていた。出世が目の前にあったが、その行方を阻まれてしまった。その時に多くの者が討死した。祟りの神様・安産の神様と言われる。

 ・長野県下條村 伊那 824号(伊那史学会)
  古城の下條さまで、尹良親王が入るのを断った。悲しんだ親王はこの石の上で身を横たえしばらく動けなかった。この石には親王の怨念が込められているという。
また三河地方にも尹良神社、尹良塚と呼ばれる場所があるらしい。

■ユキヨシサマと津島行者
 柳田によると三州街道が開けると同時に津島神社(愛知県津島)の御師が長野県に入るようになり、その段階で土着のカミである「ユキヨシサマ」に旅の安全、交通といった道祖神、サイノカミ的性格を与え、三州街道沿いの山村に分布させた。
 そこに浪合で戦死した信濃の宮と呼ばれた宗良親王へのオソレが「御霊信仰」として形を成したものがユキヨシサマではないかと柳田は分析している。
 津島神社の祭神は牛頭天王であり、その御師は薬売りとしても活動し、全国を巡った。
 牛頭天王の象徴的なエピソードとして蘇民将来の話を思い出す。
旅の牛頭天王の訪れに対し、貧しいながらも宿を貸した蘇民将来、弟の家は栄えていたものの牛頭天王を拒絶する。後日、再び訪れた牛頭天王は疫病により、蘇民将来の家以外を滅ぼしてしまう。
 前述したユキヨシサマ伝承のいずれも「来訪する貴種」をモチーフとしており、そういったところから柳田は自然と御霊信仰と津島御師の連なりを推理していったと思われる。

■井上真史の見解
 三遠南信地方には来訪する他者、旅の六部、武士、流離の姫、などを村人が見殺しにする、不遇する、殺すといったいわゆる「異人殺し」の伝承が非常に多く分布しており、ユキヨシサマもその一例といえるだろう。
 異人殺し伝承に働いているのはムラの内部と外部による限定されたマナの綱引きである。時にそれは旅の六部を殺して金を奪ったなどわかりやすい「富」として説明される。
 私はこの「異人殺し」はある種の「セーフティ」だったのではないかと考える。それは異人殺し伝承の「本当の語り手」は何者なのかという問題につながっていく。
 伝承の語り手というのは土着の古老というイメージが一般的である。だがそれは表面的なものであり、古老に辿り着くまでに何段階ものフィルターを伝承は通過しているはずである。特に複数の地方に同じような話が伝承されている時には。
 異人殺しの本当の語り手、つまり異人殺しを何よりもオソレていたのは、怨霊の祟りを受けるムラビトではない。それは殺される側である旅人達である。ムラという閉鎖的共同体が訪れる他者をオソレるように、訪れる側の人間もまた、自分にとって完全なアウェイの空間に命を任せる大なるオソレがあったはずだ。
 先に上げたユキヨシサマ伝承や蘇民将来譚をみればわかるように旅の貴種への対応如何でその後のムラやイエの命運が決まる。物語は極めて寓話的であり、シンプルに「旅人には優しくしようね」ということを語る。
 旅の六部、御師、歩き巫女、山伏、遊行者といった非定着民はこの異人殺しの物語を伝えることで、自らや同じ旅人の身を守らせる安全装置にしていたのではないだろうか。

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稲武町の御所貝津字笹平に尹良親王ゆかりの祠があり「ほのぼのと 明行く空を眺むれば 月ひとりすむ 西の山かげ」という一首がある。
歌人として有名だった宗良親王の「ほのぼのと 明くる雲間のそのままに 霞たなびく 春は来にけり」の句を連想させる。誰かが真似たか、それとも宗良親王から直接和歌の手ほどきをうけた尹良親王が作者か、あるいは尹良親王の子と言われる良王(ゆきよし)の作か?
調べるほどに奥深い闇と謎に包まれ、ますます「幻の宮」となっていく。

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