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菅江真澄考5 武節郷

 最大難所の伊勢神を越え真澄は武節郷(豊田市稲武町)に入る。元々一つの地域だったが太閤検地で名倉川の東西に分断。川西六か村(武節町村、桑原村、御所貝津村、黒田村、川手村、小田木村)を武節組、川東五か村(稲橋村、夏焼村、野入村、大野瀬村、押山村)を稲橋組と呼び、それぞれに大庄屋を置いた。前回記述した古橋家は稲橋組の大庄屋で武節組川西は山口惣兵衛が大庄屋であった。しかしその後、山口惣兵衛は不正を働いた罪で罷免され各村の庄屋だけになった。
 元の単一行政区に戻るのは明治30年(1897)に武節村と稲橋村が組合村(限りなく合併に近い)となったときだ。ちなみにこの組合村村長は古橋源三郎儀真(暉皃の長男)が選挙で選ばれている。やはり天領であった稲橋村の力が勝っていたのだろう。
 江戸幕府が森林資源(材木とエネルギー)の保持を狙い各地を天領としており、武節郷も天領であった。
天領の百姓は自ら「将軍家の百姓」とか「徳川恩顧」と言い、自分が食い扶持を減らしても年貢は納める、徳川家に何かあれば駆けつける将軍様の百姓との誇りを持っており、他の百姓とは違うという意識が高かった。近頃のアイドルに対するコアなファン(ヲタクとは言いません)状態で、その際たる集団が日野(東京都日野市)の農民が中心となった『新撰組』である。
伊勢神峠を下り、川を越すと小田木八幡神社である。
江戸中期に伝えられ明治前に絶えていた『小田木人形浄瑠璃』が平成25年(2013)に、地元有志の長年に及ぶ頑張りで復活したばかりだ。文七元結(飯田で詳細は記述する)の文七の首は愛知県の有形文化財になっており稲武郷土資料館「ちゅうま」に展示されている。
一、 芝居狂言は勿論、浄瑠璃その他音曲は相成らず
武節町村に残る文久3年(1863)の古文書「倹約取極写」にこのような一項が記されており、度々の飢饉や災害を教訓に質素倹約の申し合わせをしているから、この時期に小田木人形の上演ができなくなり後継者がいなくなったのだろう。

  稲武には足助ほどの規模ではないが7軒の『荷問屋』と8軒の『馬宿』があった。「継ぎ馬三里」と言われた御用天馬は足助で泊まり荷直しをしたが、通し馬である民間宅配便の中馬は、伊勢神峠や杣路峠の麓である武節郷で泊まり難所越えをしたようだ。
  中仙道は大名の参勤交代や侍たちの通行が頻繁であり四頭引きの馬子道中は気が休まらない。そのため荷運送は険しい山道だが、もっぱら飯田街道・伊那街道がメインとなった。
  飯田街道には飯田から山本宿(飯田市山本)、上中関・駒場・曾山・大野・浪合・治部坂宿(阿智村)、平谷(平谷村)、横旗・上鈴原・根羽(根羽村)、野入・武節町・御所貝津・小木田(豊田市稲武町)、そして足助町へと続く。現在は「中馬雛人形祭り」のイベントで繋がっている。

 中馬は信州の農民が農閑期の仕事として生まれたが、稼ぎがあれば利を求めて参入してくるのはいつの世も同じ。中馬に便乗して三河地方では「三州馬」が登場して、天馬と中馬と三州馬3社の競合となれば荷物の争奪戦も始まる。喧嘩沙汰になること多く訴訟合戦は減ることがなかった。これらの紛争は文政3年(1820)に、中馬は四頭立て(大型車)、三州馬は二頭立て(中型車)と裁許が下り決着はみるも明治まで双方の不満はくすぶっていた。
  同様に宿問屋と中馬の荷争いも多く明和元年(1764)に道筋と馬宿、荷種類、駄数、口銭など詳細が規定された「明和の裁許」により決着をみる。

  さて真澄はここで滞在したであろうか?
  真澄が飯田に着いてから書き出した「伊寧能中路(いなのなかみち)」に後醍醐天皇の孫の尹良親王の記述があり、私は武節郷を素通りし杣路峠を越え、尹良親王と関係がある根羽村で長逗留したと見る。 残念なことに先を急いだため、稲武の文化財の多くを真澄は見逃してしまった。

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