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菅江真澄考4 伊勢神峠

 旅の路銀を失った真澄は、親親戚以外で唯一頼れる国学者の植田義方(よしえ)に連絡を取り、借用できるまで、しばらく足助の宿で逗留したかもしれない。それほどまでしても故郷に帰る気はなかった。植田は賀茂真淵と姻戚関係にあり真澄が少年時代から師事していたし、旅立ちに関しても手を尽くしてくれる理解者であった。
 足助を出立して最初の難所は標高780mの伊勢神峠である。真澄が越えた頃は『石神峠』(石亀とも)と呼称されていたが、稲橋村(豊田市稲武町)の庄屋・古橋源六郎暉皃(てるのり)が元冶元年(文久4年=1864)、伊勢神宮遥拝所を峠に設置してから『伊勢拝み峠』となり、その後現名称に落ち着いた。
 峠の巨木に根元には「南無大慈大悲観世音」と彫られた年代不明の古い石仏があり、なぜか「八百比久尼」の伝説が残されている。また街道の一部は東海自然歩道となっている。

 元冶元年と言えば京都で新撰組が池田屋を襲撃した年であり、信州の佐久間象山の刺殺、蛤御門の変、武田耕雲齋の水戸天狗党や高杉晋作、桂小五郎の暗躍など幕末の激動期に当たる。
 ちなみに私がアドバイザーで入っている宇部市に知行地を領していた毛利藩の家老.福原越後が、「蛤御門の変」の責任を負って切腹させられた年でもある。

 真澄考3で記述した中馬往還も天馬に比べ荷痛みは少なかったものの伊勢神峠は杣路峠に次ぐ難所であり、4頭立てで峠を越えるのは馬子も相当な苦労であった。この中馬は江戸時代に隆盛を極めた訳だが、天馬を仕切る宿場問屋との争いが絶えず双方の訴訟合戦が繰り広げられた。さらに中馬は天竜川の通船とも争っているが明治以降、道路改良がなされ荷車運搬が発達すると中馬の仕事は減り消えていった。

真澄が峠越をした天保3年には伊勢神遙拝所もなく古橋源六郎暉皃も生まれていない。
では伊勢神遙拝所を作った古橋源六郎暉皃はいかなる人物なのか。
古橋家6代当主の暉皃は文化10年(1827)設楽郡稲橋村(愛知県稲武町)造酒屋で庄屋の家に生まれた。天保2年(1831)19歳に仮家督を継いだ時、古橋家の家政は傾いていた。
暉皃は家業を縮小しつつ兄弟と協力し家政改革を断行し再建を目指した。
そのさなかに天保大飢饉(1836)が起きる。暉皃は「己を責めて人に施すときは今のとき也」と蔵を開け米や麦を村人に与えたため稲橋村では餓死者が出ることは無かった。天保7年(1836)には「加茂の総立ち」と言われる三河最大の百姓一揆が勃発するも、代官所との交渉や自らの備蓄米を出すことで村人を治めた。その後も稲橋村ほか12ヶ村を取りまとめ村民の救済,農村の自力更生に尽力した。
伊勢神に遙拝所を作ったのは文久4年と書いたが、その本当の時期は定かでなく現在の遙拝所は平成に再建したものだ。昔は遙拝所より伊勢湾が一望できたそうだが植林された杉などで今は見えない。
明治30年(1897)には標高705mのところに全長315mの伊世賀美隧道(いせがみずいどう)が掘られた。花崗岩造のトンネルはルスチカ積みの付柱に迫石を二重の馬蹄形に組み上げた形状で、平成12年(2000)は国登録有形文化財となっている。このトンネルは軍の大砲を通過させる基準で創られたため、峠の難所を回避でき荷馬車の往来が可能となり、中馬は次第に衰退する結果となった。

車社会の到来で昭和35年(1960)には、さらに低い位置に全長1,245mの現・伊勢神トンネルが開通。しかし昨今の大型自動車のすれ違いには狭く難渋しているため平成28年完成を目処に、もっと低い位置に新トンネルが開通する予定であるこうしたこともあり、忘れ去られようとしている伊勢神峠を後世に残したいと『伊勢神峠を愛する会』が平成24年(2012)に立ち上がり、峠や明治の『伊勢賀美トンネル』の保全を試みている。

なお世襲で当主が代々、源六郎と名乗る古橋家の詳細は次の稲武編でも記述する。

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