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菅江真澄考3 足助の宿

 真澄考1で「白波にうちとられたれば、すべなし」の場所は足助宿だろうと推理した。往来の多い日中の街道で賊に襲われないだろう。とすれば岡崎を旅立って最初の宿は距離的に足助の宿となる。真澄は足助宿で信州の様々な情報収集をしたいと考えただろうし、山中でも賑わいがある足助宿自体の魅力も事欠かない地だったからだ。
 真澄の時代、足助宿は中馬の大中継基地であった。ことに塩は伊那谷の人々に欠かせない生活物資であり、他にも寒い伊那谷の貴重品である綿、塩を塗した魚に飯田では和菓子に使用する砂糖も重要だった。
 足助が文献で登場するのは遡って鎌倉期である。原型はいつの時代か不明だが、室町時代で足利義政が将軍の時代、文政元年(1466)に現在の豊田市足助支所の隣の足助八幡宮(国重要文化財)が再建されたと記録にあり、その以前から町の形成が始まっていたと見られる。
 当時足助城主であった鈴木氏の力か町衆の財力かは不明だが、寺社の再建には多額の資金を必要とする。どちらにしても山中でありながら相当な経済力と勢力を誇っていたに違いない。
 その後足助氏は没落し三河鈴木家が本拠とするも、戦国時代は度々足助を治める領主は代わる。徳川綱吉が将軍の天和元年(1681)に本多忠周が赴任し、その後『足助本多家』が明治維新まで治めた。なお足助の山城は家康が関東に移封された後は使用すること無く本多家は足助村内に陣屋を置いていた。
 真澄が逗留したであろう時期の足助宿は、安永4年(1775)に発生した大火により多くを焼失し、この大火後に再建されたばかりの頃で、類焼を防ぐ漆喰塗籠めの壁とやや急勾配の瓦葺屋根が眩しかっただろう。こうした漆喰塗りは全国の重要伝統建物保存地区でも散見されるように、どこも大火を経験して防火防災意識が上がったと推察する。
 元禄年間(1688?1704)は足助宿の大発展期となった。信州や岐阜、静岡への交通の要衝として、宿場町と流通問屋が隆盛を極め、飯田街道では飯田に続く二番目に栄えた。
 流通の手段は中馬。そしてメインの荷は『塩』であり、ゆえに飯田に入ってきた塩は『足助塩』と呼ばれた。
 面白いことに足助には近くの三河産だけでなく、あの忠臣蔵で有名な赤穂の塩も入ってきており、その両方の塩をブレンドし中馬の運送に都合良い俵に詰め直した。そのため『足助直し』とも呼ばれた。商売には赤穂も吉良も関係なかったというわけだが、飯田下伊那の漬物文化はこの塩のおかげで出来上がったのである。
 大発展した
 江戸時代の旅は平均、一泊二食248文で現在に置き換えると4,100円である。飯田にも2度ほど訪れている江戸期の大ベストセラー作家であった十返舎一九の代表作は東海道中膝栗毛で、実際に江戸から京都まで旅をしているが、道中記の二人は一日約10時間かけて30?40kmを歩き、京都に15日前後で着いている。これを例に取れば片道一両千文(82,500円)となる。当時の大工さんの年収が26両(130万円)月収平均156,000円だから、給料の半分以上使った計算となる。
意を決して家を出た真澄の所持金はどのくらいか分からないが、盗難に遭い一時は悲嘆に暮れただろう。それでも飯田へ向かったのである。
途中に奇特な支援者がいないと東北までの旅路は長い。ゆえに知人を頼って逗留する手段は所持金の有無に係わらず必要だった。飯田の知人は誰か不明だが街の商人で何とかしてくれる財力があったと思料できる。
さて途方に暮れた真澄は、役所などにも届け出ただろう。しかし得体の知れない真澄への対応は現在の役所と同様に、暖簾に腕押しだったろう。そこで民族学者でない気楽さから筆者は推理する。残念なことに真澄が頼れる知人は足助にいなかったと。しかし興味がある町をみたいし、ちょっと飯田へ行く前に寄り道したい浪合神社もある。さらに手元不如意ではいかにも心細い。幸いに旅人の出入りが多い町であれば、占いや薬草の知識で稼ぐことができるかもしれないと。
かくして岡崎から出発し2日で到達できる飯田までに半月も掛けるはめとなったのではないだろうか。
※豊田市足助重要伝統建築保存地区のパンフレットより転載

足助塩を扱っていた莨屋

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