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南信州、東三河、遠州にみる祭

諏訪湖を源とする天竜川水系は日本の伝統芸能の集積地である。多様な民俗芸能が全て網羅される地域というのは全国的にも珍しく「世界遺産」に匹敵すると静岡文化芸術大の須田教授は述べているが、日本の中心であり東西交通の結節点であった地域には、当然のごとく東西文化のうねりを受け止めて、我がものとして蓄積した結果である。
「吾妻鏡」に記述された遠山郷の上村は、南アルプスを控えた山里にあり平成の大合併で飯田市と合併した。その上村の標高1000m付近に「日本のチロル」と呼ばれる「下栗の里」集落がある。30-40度の斜面に張り付くように家々と畑があり、昔からジャガイモ、ソバ、こきび、たかきび、あわ、ひえなどの雑穀を作り生活を営んできた。
本家アルプスのチロルには、三遠南信エリアと同様に春は冬を追い払うものとして、多神を象徴する仮面と仮装で飛び跳ね踊る「ヴァンベラーライテン」という祭がある。
自然の厳しさから森羅万象に畏怖し敬う祭が、遠方のヨーロッパと日本に存在していることは人間の根源の信仰を感じさせる。
これら祭りを始め様々な伝統芸能を広めたのが、役行者を祖とする権現信仰の修験者であったと言われる。山間の川そばに居住した修験者は、伊勢神社を発端とする「湯立て神楽」の祈祷を行った神事に、芸能という楽しみを加え変じて愛知県東三河地方の「花祭」「御神楽祭り」や飯田市遠山郷の「霜月まつり」「治部冬祭り」「お潔め祭り」となった。
折口信夫(1887-1953)により「田楽」から「雪祭り」と名称変更された「新野雪祭り」をはじめ鳳来寺、黒沢、西浦、田峰の田楽群に、盆踊り、念仏踊り、放下舞い、榑木(くれき)踊りなど掛け踊り群、、鹿舞い、獅子舞、農村歌舞伎、人形浄瑠璃など、一夜を神と共に過ごす祭が存続し国道151号は別名「祭り街道」と呼称されるほどである。
また、もう一つ特徴として火に由来する祭りも多い。これは山伏など修験道の聖地「秋葉神社」の影響であると思われるが、火神「秋葉信仰」と水神「竜神(諏訪)信仰」田神(山神)が渾然一体となっており、厳しく貧しい山村の民が八百万の神への信仰によって、活路を見いだし芸能化することで、ささやかな娯楽を楽しんだものであろう。
「狂言は血の世襲」と人間国宝の狂言師野村万作は表現するが、世阿弥の時代から時の権力者に保護され「能」や「狂言」に昇華し「血筋の舞い」としての位置づけがされたのと違い、「田楽」や「かけ踊り」は山村の民と融合し神の仮面を付けた「民衆の神遊びの世襲」の「おどり」として生き残った。
三遠南信地域の祭は飛び跳ねる踊りと回転系の舞いの双方がある。三隅治雄(*2)は祭において神迎えが旋回する動作であり、日本における「まわる」の名詞化が「舞」であると「芸能の谷・日本芸能史のルーツ」の中で述べている。とすれば「YOSAKOIソーラン」は、田楽という日本芸能が伝播しなかった北海道で生まれた新たな田楽かもしれない。
柳田や折口に見いだされた深山の里に根付いていた祭は、三隅らの詳細調査から体系化され、日本の芸能史を明らかとする重要な発見となった。
「外からの見学者は仮面神たちの行動を眺め、神遊びのいまに伝わる姿かと簡単に頷いて帰る見学体験を繰り返してきた。先学の啓示をよるべに、ものを見て合点する観察眼の荒っぽさが見学者の感性の衰退を招いた」と、三隅は著書『華麗に神々が舞う里』で述懐しているが、この指摘は外部者だけでなく内の課題でもある。
これら国無形文化財で世界遺産級と言われる三遠南信地域の「まつり」も、経済バブルの中で「ムラの共同体」意識が希薄となり「人」と「資金」の課題から衰退しつつあり、将来が危ぶまれていることも事実である。
地域を表面的に眺め、施策を投じる行政や文明の神に宗旨替えした住民のところには神降りが無くなった。

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