■都市と田舎の価値観ギャップ
町に行った田舎のネズミは、見たこともないご馳走に驚いたが、食べる前に危険な目に遭い逃げ回る。田舎のネズミは「素晴らしい御馳走があっても危険が多いのは御免だね。僕には安全で怖いこともなく暮らせる土くれだった畑で食べている方が性に合っている」と田舎に帰っていく”童話がある。
では今はどうだろう。
大都市と地方では誰もが知るように、大きな所得格差が存在する。
だが格差はそれだけでない。例えば無医地区は約600地区弱に及ぶし、少子化で学校は毎年300校以上が閉校している。中心市街地では空き店舗が増加し、村の店舗は閉店する一方である。いつ来るか分からない公共交通に昨今の長野県のガソリン代はずっと日本一高い状況が続いている。これに加え教育や医療、生活、交通などで目に見える格差が生じている。
これではさすがに田舎の若いネズミは飛び出したくなる。
だが都会のネズミも夜昼なくみんな何かに追い立てられ働く。これって変だよと思い、田舎に脱出してきた。だがイメージしていた桃源郷は残念なことに田舎に存在しておらず、様々な軋轢ばかり。大都市になれない地方は中途半端で全国画一的な都市化が進んでいた。
移住者は夢見た地方の理想像に見事に裏切られるはめになったわけだ。
■「地域他治」が地域を衰退させた
昔から「よそ者、来たり者」は定住して数代経過しても共同体メンバーから他地域からやってきたコミュニティ外の人間とされてきた。
地域の担い手を確保するには、都市からまず自分たちの子どもを取り戻すことだ。
Uターンの推進こそ行政が一番力をいれるべきで、最も施策の成果を発揮する。
しかし住民はとにかく「こんな田舎とか何も無いところ」と卑下し自らの子弟は都会に送り出してきた。
昭和世代の人間は大都市が上で地方は下との考えが、経済成長期を経てさらに定着してしまい、立身出世は大都市に行かないとダメという思考から抜け出していない。
一方で地域の担い手が減少すれば、行政に対して人口減少を何とかしろと言う。
残念ながら「地域自治」は壊れ、我が儘で自ら解決しようとしない依存体質の「地域他治」となってしまった。
都市部はお金を介して他者を助けるのに対し、農村部は生産物を介して他人を助けると言う対応の違いが存在したが、地方の共同体は明治以降、共同体を弱体化し権力集中を図りたい政府の圧力や政策によって壊れていった。
こうした事象は近頃始まったものではない。
昔から「お上」には逆らえないと言う。だがそれはいつから言われているのだろう。
江戸時代は領主の法外な年貢に対して農民一揆が頻発した。強いものに立ち向かえる勇気のある人々がいたのだ。
つい最近でもコロナ禍の「緊急事態宣言」による政府のマスク着用や飲食店の休業などの「要請」に唯々諾々と従った。「お上」(政府)の言うことは承諾してくれるよね。という暗黙の命令であるものの国民自ら行った行為でしょとする意識があった。
いまだに「お上」のいうことは絶対であるという数百年の「すりこみ」は大敗退した戦争を経ても国民意識は変わっていないのである。
余談だが、戦後、米国の日本統治は楽だった。「お上」がマッカーサーに変わっただけの出来事であり、上に逆らわない統治客体意識が国民のDNAには組み込まれていたからだ。
だがこのことで米国人は、アジア人は与しやすいと誤解し、その間違えに気がつかいまま、後のベトナム戦争に突入し、米国は辛酸を嘗めることになる。
だがこの日本人的特徴に気づいた米国人がおり、「天皇」という存在を残し統治の仕組みを作ったのである。