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江戸時代中後期の諸藩の人材育成

昨日まで諸藩の財政再建を書いてきた。
節約や増税による財政再建をした藩は、領民の不満が募り一揆が勃発している。我が懐だけを守る政策では住民が着いてこない。今は財政調整基金(災害など必要やむを得ない理由で財源不足が生じた年度に活用する積立金)が空っぽになっても住民の生活を守るために取り崩すことだろう。
さて江戸期の藩政改革は、財政再建だけでなく「人材育成」に重点を当てている。
経済再生だけで終えること無く、次世代の地域を担う財源にしていった点でも再生を主導した人たちは考えていた。
費用をすべて藩が負担していたため、多くの藩でさらに借金を抱えたところも多いが、有名な「足利学校」、上杉鷹山の「興譲館」、佐賀の「弘道館」、和歌山の「学習館」、萩の「明倫館」、仙台の「養賢堂」、熊本の「時習館」、鹿児島の「造士館」、金沢の「明倫堂」、水戸藩の「弘道館」など儒教や朱子学をベースにした藩校(藩黌)が盛んだった。
ばかりでなく私塾も盛んで、儒学をベースに兵学家として「佐門の二傑」と称された山田方谷と佐久間象山、そして維新の先鋒となった吉田松陰の「松下村塾」は、後の明治まで善し悪しはあるが影響を与えた。
姫路藩の財政再生に成功した「河合寸翁」も仁寿山校(じんじゅさんこう)という私塾を開き、藩外から頼山陽(らいさんよう)など著名な学者を講師に招き、領民一人一人を尊重し、国に役立つ人材の養成を目指した。
山田方谷は「長瀬塾」を創設し、晩年には「閑谷(しずたに)学校」で教鞭を執った。弟子達に真心と慈しみの心「至誠惻怛」(しせいそくだつ)を語ったという。人の上に立つ者は、この二つの心をもって事に当たるべきことを方谷は説いたのだ。
前項で挙げた大野藩も名君・土井利忠の旗振りで「明倫館」を設置し藩士の育成をしている。
コロナ禍の中、困窮大学生が退学しなければならないとの報道もある。未来を担う学生達を救うことは重要だが、残念なことに僅かな政府の支援に留まっている。
一方、出身地域から学生達に農産物を送る支援も盛んだ。
「教育事業」に投資を行い、子ども達そして若者を育成することは地域を救う大切な事柄だ。
さて現在、地方の名君はいるだろうか?

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