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江戸中後期の諸藩の財政再建―人物編2

財政再建で傑出した人物は何人もいるが、荒技の調所広郷はともかく、山田方谷、山片蟠桃、河合寸翁あたりは、挙げられる機会が多い。いずれも苛烈な節約、給与カットで守旧派から命を狙われることもあった。
藩の財政再建の要はどこも地域資源を活用した「殖産興業」だった。
薩摩藩は財政再建をなし得たことで明治維新の雄となったが、その再生を任されたのが「調所広郷」だった。
文政10年(1827)に調所は、財政改革主任に任じられ、財政再建に着手。最初にしたことは負債500万両、年間利子60万両を250年返済、しかも無利子と、一方的に商人に通達した。つまりは借金をチャラにする荒技を繰り出したわけだ。
その一方で黒砂糖の専売強化と琉球国を隠れ蓑に清国との貿易を盛んに行い13年間で再建を完了したが、幕府に密貿易を糾弾され服毒自殺をした。
これで黒字化した薩摩藩は自前の武器を作るため、反射炉建造 (世界遺産登録された)をはじめ、「薩摩切子」などのガラス細工、紡績といった工場群を 「集成館」と名付けて整備した。
佐久間象山と親交があった「山田方谷」は、10万両の借金で破綻していた備中松山藩を再建した男で、その手腕は上杉鷹山を凌いだとも言われる。
この男も調所と同様に返済期限延期と利子の免除を大名貸に週諾させた。ただしそれは50年で、なおかつ「財政再建計画書」を提示した点が違う。
やはり出資を募る、借り入れをするには、きちんとビジョンを描き、緻密な計画を提示することはいつの時代でも大切だと分かる。
同時に信用力の無くなった「藩札」を回収し、公開で焼いてみせるパフォーマンスを実施。新たな藩札の発行をして、それで領内から生産物を買い取り(現金が無くても仕入れ可能となる)、大阪や京都で商売をして現金を得る手法を取った。
この再建のメインは地域資源の編集加工とブラッシュアップをはかる殖産興業だった。タバコに茶、こうぞ、高級和紙、そうめん、柚餅子などの特産品を開発し、江戸で大々的に販売した。
なかでも出色だった発明品が鉄製の備中鍬だ。農家の方々には馴染みがあり、今でも「びっちゅう」と言えばあの三本鍬(もしくは4本)と分かる。この備中鍬を中心に前段で挙げた商品全てに「備中」の名を冠して販売したのだ。いわゆる地域の統一ブランドづくりで成功した例だろう。備中鍬
またそれら商品は、生産から販売まで一気通貫として、中間卸業者を中抜きし藩直営のバリューチェーンを構築したのだ。
この方谷とよく似た再生をした人物に越前大野藩の「内山七郎右衛門」がいる。現在天空の城「越前大野城」で有名だが、当時は小藩であり著名な人物に挙げられないが、畠中恵の「わが殿」という小説は、その七郎右衛門を取り上げている。僅か60石で名門でもない七郎右衛門を見いだしたのは藩主の土井利忠(名君の一人に数えられる)であり、七郎右衛門は「打ち出の小槌」と評していた。大野藩は石高4万石(実質は半分しか無かった)でありながら、9万両という通常では返済不可能の借金を抱えていた。
七郎右衛門の再建策は
① 借金の借り換えと利息を下げる
② 新規銅山の開発
③ 特産品開発
④ それを大坂で藩直営の「大野屋」で販売する
まずは面谷の新規銅山開発が成果を上げたことで、たばこをメインに日本酒・醤油・味噌・酢などの特産品開発や販売に力を入れることができた。
銅により信用力を持っていた藩札で領内の特産物を買い上げ、それを大坂で藩直営の「大野屋」で販売したり、洋式帆船「大野丸」を建造し、洋上交易でさらに収益をあげた。
七郎右衛門は明治維新後に良休社(銀行の原型)を設立。その後に福井銀行に合併させられるものの維新後、藩士の食い扶持を確保することに邁進した。
そして現在、なんと大野屋は(株)平成大野屋として七郎右衛門の意志を繋いでいる。

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