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ポスト・コロナの地方観光づくり-マーケットは脚下にあり-

オーバーツーリズムに悲鳴を上げていた京都の街に観光客がいない。うんざりするような大混雑
は無くなり、舞子を追い回す「舞子パパラッチ」も消えた。静謐な京都が戻ってきた。京都の佇まいという一番の資源がインバウンド狂騒から解き放たれたのである。客がいない三寧坂
都道府県が異常な誘致合戦を繰り広げたクルーズ船はコロナウィルスのイメージがつきまとう。昨年までのインバウンド狂乱は、うたかたの夢のごとくコロナ禍で消えた。
外貨獲得のために劇場化した祭りや一過性のイベントは全て中止。
「このイベントに数万人が来る。凄いだろう」と自慢した自治体トップは今、何を考えているだろうか。
非常擬態宣言が解除されても客は戻らず、休廃業するホテル旅館の転廃業や倒産が相次いでいる。世界各国の状況を鑑みればインバウンドに期待はできない。政府が言う「新たな生活様式」を国民が実践すれば国内観光客の増加など、今年どころか来年にかけても逆風は続くに違いない。
旅は何より「安心・安全」が担保されてこその余暇活動だ。
ゆえにこの「安心・安全」が担保されない限り、観光客はコロナ騒ぎ以前まで戻ることはない。
ではどうすれば良いか?
ここで今年考える点は
「近攻遠交」の観光戦術を取る
・元住民に自地域の観光を体験してもらう「近攻」策から徐々に近隣市町村に拡げ、次第に県内に拡げていく。
 遠いエリアは情報発信による「遠交」だ。
これは中国の范雎(はんしょ)が秦の始皇帝の曾祖父である昭王(しょうおう)に説いた兵法「三十六計の第二十三計」にある「遠きに交わり近きを攻める」という戦術である。
まだまだ大都市圏の自粛は続いている。都道府県をまたぐ移動も何となく憚られるため控えている方々のストレスとなっている。当然マーケットは地元や近隣に限られる。
こういう時こそ地元の方々に我が地の観光を再認識してもらう良い機会と捉え、積極的に地元を受け入れることが良い。
地元の方々に「良い」と認知されれば、一度、親戚や友人を呼びたいと思うだろう。ここから「口コミマーケット」が本領を発揮する。ウイルスの拡散でなく、地域から人伝に媒介する良いコトを伝染させよう。

-資源も脚下にあり-
現在の厄災前に急拡大していた「コト消費」は、旅にも如実に顕れていた。地域の豊かな文化や景観、生活風土を守り、生活をしている場が新たな目的地として求められだしていた。大手旅行社も「爆買いから体験系」を合い言葉にツアー企画を練っていた。
コト観光は全国一律でどこでもできる「汎用性」ではなく、ここでしか経験できない「希少性」が大切だ。単なる既存観光の書き換えや真似事では話にならないし、地方で全ての観光客に山登りを体験させるのも芸がない。
旅人は自らの日常とは異なる日常を求めてくる。見たことのない街や農山漁村の景観に驚き、違う言葉で異国を感じ、初めて食べたものに感動する。五感を駆使できる体験や初めての経験を楽しみに訪問するようになるのだ。
ゆえに『その場所、その時、その人』であることが前提条件となる。同じネタでもどことも違う経験ができれば、旅人は目的地と定めてやってくる。人は何らかのテーマを持って旅に出る。特に若者にその傾向が強く、その潜在ニーズにピタリとはまる情報を地域が発信できれば必ずやってくる。
まず自分が思っている常識を捨ててみよう。
例えば、集落の高齢化率100%でしかも百歳を越える方がいれば地域資源の塊だ。高齢者ばかりで困る、何もできないのではなく、長寿の要因であろう食べ物や暮らし方の話を聞きたい知りたくなり、同じ暮らしを経験したいと思う人も必ず顕れる。
とは言うものの最も重要なコミュニケーションが感染要因とされる。高齢者が暮らしている農家民泊の受け入れは、相当なリスクマネジメントが必要だ。
ポジティブに捉えれば、こうした経験こそがコトの観光となる。これは従来の観光の範疇に入らないコトであり、外部から入ってきて企画はできない地域の最大の武器といえる。
「エシカル消費」は、倫理的あるいは道徳的という意味だが、今、地元飲食店を少しでも助けようと始まっているテイクアウトにも出てきた。
旅は「体験の提供」から「暮らし方の提案」へ移行しつつある。
外の人たちが地域に思いを馳せるエシカルな旅を仕掛けてみてはどうだろう。
大切なのは補助金依存や管製イベントで人を集めることでなく、コトに共感し、助けてくれる新たな互助・共助の価値創造の旅ではないだろうか。

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