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畿内へ移動した徐福の民

皆様の友人で、秦・畑・波田・波田・畠・旛・幡多ほか羽田や畠山、畑中など「はた」と読める名字の方がいますよね。
先祖を辿れば中国の「秦」王国に至る方々もいるかもしれません。故羽田孜総理大臣は自ら徐福の末裔であるとし、日本徐福会の名誉会長も務めていた。
ただし歴史学者が盲信する「日本書紀」によれば、応神天皇期に古代朝鮮の百済から新羅との戦を避けた弓月君(ゆづきのきみ)の民が渡来、帰化したことで日本の秦氏の祖とされる。
当時は高級な絹織物が得意だった秦氏は大和朝廷に厚遇され権力基盤を大きくし、勢力をのばしていった。
だが秦の始皇帝の名前は嬴政(えいせい)であり、「秦」ではないことから、弓月君の権威を上げるためにねつ造したというのが真相のようだ。嬴政えいせい
諸外国の民は全部、シルクロード経由で朝鮮半島廻りの渡来していると思うなかれ。
ロシアなど自国から直接、日本海側の各地を訪れ貿易をしている。
現代でも中国の船も日本の近海で怪しげな行動をしており、直接中国から来ることは可能だ。
では本当に秦から渡来していないのだろうか?
私は熊野市波田須(旧名は秦住)で徐福の墓(らしい)と徐福が日本で発見したとされるクスノキ科の天台烏薬、さらに秦の通貨「半両銭」を見ている。
秦の半両銭
徐福の墓
徐福が発見したとされる天台烏薬
これは間違いなく秦国の民が日本に渡来(波田須は台風による難破で上陸)している。
私の妄想では、徐福王国の権威を広める先触れか、畿内勢力の動静を探る諜報活動だったのではないだろうか。
中国には「神武天皇は中国人」とする誇大妄想の伝説もある。
神武東征は佐賀の徐福王国から宇佐を通り、瀬戸内を航行、難波の碕(なにわのみさき)から白肩津で上陸、生駒山を越えたところで奈良を拠点する「長髄彦」(ながすねひこ)率いる軍と激戦となり敗退。改めて熊野灘を経て神邑(みわむら)より上陸する。その後、八咫烏や猿田彦の支援を受けて中洲入りを果たしたという。
この伝説から推理すれば、吉野ヶ里遺跡の石棺墓は徐福王国の始祖王と思えてくる。
さらに徐福あるいは徐福の末裔イコール神武天皇となる。
さてこれは天皇家の系統で重大事件である。

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