宗良親王の子、尹良親王が松尾村(飯田市松尾)を通る際草履(ワラジ)の紐が切れた。そこで百姓家で一足譲ってくれるよう頼んだが百姓は断ってしまった。尹良親王はしかなく裸足のまま去ったが、浪合で殺されてしまった。その後、松尾村では祟りなのか、足を病む者が絶えなかったため、「みきよし様」と言う社をつくり祀った。
なぜ「みきよし様」としたかは不明だが、松尾の八幡神社の隅に尹良親王神社として祀られており「俺の先祖が悪いことしたばっかりに・・・」とこぼしながら今も農家の末裔とされる人たちがお世話をしている。
「ユキヨシ様」の祟りは足に限っている。具体的に一軒の農家が祟られ代々足を病んでいるとか。
何となく蘇民将来の話と似ているが、コタンのように滅ぼされてはおらず、拒否した農家の末裔が現在もお奉りをしている。
・親王が切腹をした。その時敵方の武士が気の毒に思って介錯をした。その時、親王の血が足についた。以来、この一族のなかで胎児の5人に赤いあざが出来る。また神社の分社を祀るようになった。『伊那』673号(伊那史学会)
・親王の祟りがあると言われている。親王は追われて自殺したがその子供は成人するまで隠れていた。出世が目の前にあったが、その行方を阻まれてしまった。その時に多くの者が討死した。祟りの神様・安産の神様と言われる。『伊那』673号(伊那史学会)
・古城の下條さまで、尹良親王が入るのを断った。悲しんだ親王はこの石の上で身を横たえしばらく動けなかった。この石には親王の怨念が込められているという。また三河地方にも尹良神社、尹良塚と呼ばれる場所があるらしい。伊那 824号(伊那史学会)
等々が採取されているものの、三遠南信エリア(伊那谷・三河・遠江)にかけてエリア限定のタタリ神であるようだ。
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柳田國男は「東国古道記」の中で「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神(一種の道祖神)へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」としているが、軽く触れているのみで民俗学的にも文献は少ない。
柳田の見解では、三州街道が開けると同時に津島神社(愛知県津島)の御師が、信州に入るようになり、その段階で土着のカミである「ユキヨシ様」に旅の安全、交通といった道祖神、サイノカミ的性格を与え、三州街道沿いの山村に分布させた。そこに浪合で戦死した信濃の宮と呼ばれた宗良親王へのオソレが「御霊信仰」として形を成したものがユキヨシ様ではないかと分析しているが、「ユキヨシ様」はそれ以前から土着していた点には触れていない。
その御師は薬売りとしても活動し、全国を巡っているにも係わらず「ユキヨシ様」信仰は他地域に伝わっていない。
まぁ土着神であるゆえ余所へ持ち込めなかったのだろう。
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津島神社の祭神は牛頭天王である。牛頭天王の象徴的なエピソードは蘇民将来だ。御師としてはこんな都合の良い土着神を使わない手はないと思ったのだろう。
菅江真澄も『委寧能中路(いなのなかみち)』の中で、「尹良(ゆきよし)親王」や「良翁権現(浪合神社)」に参詣した思い出を書いている。江戸時代から「尹良親王」のことは知られていたのだ。
尹良親王は「幻の宮」とも言われる謎の親王だ。
尹良の「尹」の通常の読みは「いん」であり「ゆき」とは読まない。律令制の弾正台長官あるいは左大臣を指す漢字である。
「尹」を部首とすると「しかばね」となる。これはいきなり不気味な漢字だ。白川静博士は「尹」は「呪杖」だと言っているが、この尹に「人偏」を付けると「呪杖」を持つ人「伊」となり、伊那地方を支配する人間となる。
「ゆきよし」の名も尹良以外に行儀・之義・行良・由機良とあり、読みもユキヨシ・タダナガ・タダヨシ・マサナガなどいろいろあり、どれが正しいかもわからない。
「鎌倉大草紙」には南朝の某宮が浪合で戦死した記述があり、飯田市上下久堅を領土としていた知久氏の伝記では、足利直義の落胤「之義(ゆきよし)」が応永3年3月24日に浪合で戦死したと伝えている。戦死した場所は下伊那郡浪合村の峠なのか、尹良親王墓がある浪合神社の延宝から正徳頃までの棟札には、祭神を行義権現と記している。