ヤマト連合政権ができた頃、日本には九州、関東、東北にそれぞれ、意思を統一した「国」が存在していた。北海道のアイヌ民族は国の概念は無くそれぞれの部族で暮らしていた。
日本には少なくとも4つの国があったわけだ。
景行天皇は西に東に飛び回り各地の国を平定していった。
しかしその業績は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に集約されている。
なぜだろう??
日本武尊は三種の神器の一つである「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を倭姫命(やまとひめのみこと)より渡され、焼津であの草薙剣(くさなぎのつるぎ)神話が生まれた。
東国へ行く途中、今の焼津で騙されて野に入った際に、日本武尊は周囲から火をかけられて炎に囲まれてしまう。この絶体絶命のピンチに天叢雲剣で自分の周囲の草を薙ぎはらい、事なきを得たことで天叢雲剣は「草薙剣」と名前が変わる。
野原で火をかけられたとするが、富士山が活火山だった時代。景行天皇が噴火で足止めされたのが実態ではないだろうか。
三種の神器の1つ「草薙剣」は、日本武尊がなぜか熱田に置いて帰ることになるのだが、景行天皇は尾張氏との関係が相当深かった証拠だ。そして現在も熱田神宮が持っている。
この神話を妄想解釈すれば、日本武尊(尾張族と縁を持つ景行天皇の御子か)と共に日高見国を制圧した尾張(おはり)族が、日高鉱山の権利を手にしたということだろう。政権内でかなりの力を持っていた尾張族は、さらなる権力欲から日高見国が欲しかった。そこで天皇を焚き付けて侵攻を具体化したのだ。
もちろん征服し権利を手中にした尾張氏は当然、手放すことはなかった。ヤマト政権の他の有力豪族は気に入らない。そこで手ぶらで帰ってきた御子を伊吹山で襲った。ヤマトタケルは尾張陣営である伊勢方面に退却。能褒野(現在の亀山市)まで必死に逃げたがここで息絶えた。
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さてひとつ疑問を提示しておこう。
ヤマトタケルの魂は白鳥となって大阪府羽曳野市に降り立ったのはなぜか (現在の白鳥の陵)
日本武尊は東征する前に、熊襲討伐で九州に向かっている。これも景行天皇が行っているわけだが、なぜ七年間も九州攻めに出てヤマトを空けているのか?
確かに九州はヤマト政権からすれば、まつろわぬ国であり、九州の「倭国」であったわけで、九州討伐は問題ない。
しかしそうすると、神武東征が本当に九州からヤマトに来た話なのかと言う疑問に到達する。
神武のふるさとのはずだ。それとも神武は九州から追い出された部族なのか?
しかも九州では長髄彦と戦争をしている。
色々と辻褄があわないのだ。
私はこのシリーズで長髄彦は本州の古部族(出雲、もしくは諏訪の民)が追われて青森にたどり着いたと書いた。決して九州の部族ではないのだ。
記・紀編纂は天部天皇の御代からである。その時期にヤマト政権がどこにあったかで、東西は分かれるわけで、当然、大阪から九州は「西」、奈良から東北にかけては「東」である。
誰かが九州制圧に動いただろうが、それを架空の日本武尊に集合させて書いているのだろう。
少なくとも日本武尊の動きには無理がある。
では神武東征をヤマト出発点としたら、日本武尊の東征は神武東征であることになる。
景行天皇と日本武尊と神武天皇がトリプルブッキングになってしまう。
そこで全部、英雄譚神話を創作し、矛盾を解決するには、九州の日向を出発点にしなくてはならなかったのではないか。
それは九州をふるさととする「氏族」が、神武天皇を初代天皇とした神話として歴史を改変したかったのだろう。その氏族は饒速日命を祖神とする「物部氏」か九州に拠点を持っていた「秦氏」のどちらかだ。
たぶん物部氏の策略とみる。なぜならば記・紀では神武天皇は天照大神を祖先としたからだ。天照大神の孫が饒速日命であるとしていることから、我が物部族こそ大王家と深く繋がる氏族とブランド化を図ったわけだ。
貴種を創り出すための歴史歪曲は、世界の常識かも知れない。
記・紀を正史とするために、それまでの史料を燃やしてしまった大和朝廷。
その歴史改変は明治政府によって、さらに改変を重ねることで真実が隠されてしまった。
余談だが景行天皇は剛強無双の武人だったが、女性に対しての無双ぶりは凄く、片っ端からお手つきにし、80人の子を為したそうだ。現天皇家の存続問題など何処吹く風だったろう。
当然皇子たちもたくさんいたので、景行天皇は各地へ派遣した物語が集約され1つの神話にしたとすれば各地に飛び歩いた日本武尊の行動もうなずける。