古来より日本人は「外つ国」の新しいものを常に吸収して自分のものにしてきた。
江戸時代までは中国文化を積極的に取り入れてきたが、明治維新以降はヨーロッパの文明を積極的に導入する中で、「文明開化」と称して生活様式を含め様々な文化や風習に埋め込まれていった。
日本における最も大きなインパクトは「仏教」伝来であった。
日本人はこの仏教を上手に取り込み、「神仏習合」として神社と寺がお隣どおしの関係が築かれた。
皆様が「神様、仏様」と言って手を合わせ、お願いするのは正しいのだ。
しかし明治に「神仏分離令」が発布され、全国で「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動が巻き起こり、寺にある貴重な仏像や経典、寺院自体を破戒された。
本当は国の政策で分離されるまでは、八百万の神と仏はとっても仲良しだったのである。
このように現在の日本の宗教や風習、文化は明治維新でかなりの部分が書き換えられた。
このことを理解せず「これこそ日本の文化だ」と言うなかれ。
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一方で、農村では旧来の文化・風習を残してきた。
悪い風習の代表は村人が共同絶交をする「村八分」だろう。ムラの掟に違反した者に対して、一切の取引・交際を絶つことだ。「はちぶ」は、葬事と火事は例外とする説や、仲間ハズレにするからきている。
かつてのムラ社会は焚付け用やの雑木や落ち葉肥料(腐葉土)を集める共有林や屋根用の茅の共有地を持っていた。そこを使えないと農業では困る。だからムラの因習には従わざるを得なかったわけだ。
現在ではさすがにそうした行為はなくなっているが、相変わらず土着民は「来たり者」を差別する傾向は残っている。
この村八分が盛んに行われているのが学校現場だろう。残念ながら一部の子どもによるイジメに対して、先生まで一緒になって黙っている状況はこの村八分と変わらない。
こんな土着文化は早急に排除しないといけない。
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日本文化は、かつて高貴な方々が行ってきた行事が、民衆の文化として土着化したものが多い。
例えば「花見」は奈良時代まで「梅」の花見だったが、嵯峨天皇(在位809-823)が催した「花宴の節」から桜に変わったとされる。平安時代になってから貴族たちは桜を愛でるようになったのである。
高貴な方々の遊びが民衆に移ったのは、あの暴れん坊将軍の吉宗だ。
江戸っ子は桜の季節になると、将軍の墓所がある上野寛永寺境内に集まり飲めや歌えの大騒ぎをしていた。
これに困った吉宗さん。これは江戸に遊ぶ場所が少ないからだと考え、桜の名所を作ろうと思い立ったのだ。
1717(享保2)年、まず隅田川の堤防へ桜の植樹、1720(享保5)年には江戸北郊の飛鳥山に、桜を植栽していき、桜の花見を奨励したのである。なお現在のソメイヨシノは吉宗よりずっと後の時代だ。
そうした中で桜の落ち葉を塩漬けにし、その葉で餡入りの餅を挟んだ「長命寺桜餅」と言う名物も誕生していく。
飛鳥山には「水茶屋」が54軒出ていたそうでその後、高級料理茶屋の立ち並ぶようになったという。これも吉宗が花見と一緒に飲食を奨励したからであり、国のトップの経済対策として中々だと感じさせる。
それと比較してA首相が主催した「桜を見る会」は、国民と乖離した私祭だったなぁ・・・。
こうした花見は都市部の祭りであり、農村の花見はまったく違うものだった。
農村の桜は「農事」のための大事な花であり、そもそも花見の意味が違うし、エドヒガンやヤマザクラの一本桜である。
それらの桜は稲作の「種まき」(苗代づくり)の時期を知らせるものや田んぼの「代掻き」を知らせる花だった。
地方によっては山の残雪が、種まき爺や猿の形に見えたら種まきシーズンがきたとするところもある。有名なのは北アルプスの白馬岳で、まさに「しろうま」の形が出たら、春の農業開始と見ていた。
地方は大都市の真似をしないで、農村の文化を護ろうよ。それこそが地域の宝なんだよ。