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菅江真澄考15-山本そして飯田へ

真澄が漂泊を始めた天明2年は、十代将軍徳川家治の時代である。暴れん坊将軍の吉宗の孫で、寵愛を受けて育ったが、帝王学を叩き込まれたはずなのに、じいちゃんと違い、幕政は側用人が田沼意次に任せ、もっぱら将棋に没頭、暗君とか無能将軍との評価しかされていない。一方、田沼は時代劇で悪人で描かれることが多いが、池波正太郎の「剣客商売」では、大局を見る政治家として描かれている。

どうも真澄と同様で「スローな旅」、さっさと歩みを進めよう。

駒場を出立した真澄は、飯田の知り合いを頼りに向かいます。

駒場村~春日村(たぶん道中だから春日神社は参拝しているだろう)~中関村~山本村のルート(現国道153号に近い)であったと想像している。

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中関には「弘法大師の名号碑」がある。「南無阿弥陀佛」と彫られた板碑の文字は大師の真筆と伝えられ地元では4/21(大師の命日)に、今も祭りをおこなう。建立では中関の村人が総出するだけでなく駒場、上中関、備中原、向関、昼神、小野川、山本から340余名が応援に駆けつけた。

この碑が建立されたのは文政二年であり、天明三年は36年遡るので、この道を歩いた真澄は当然見てはいない。ただし大師を慕う地元の方々には申し訳ないが、ちょっと大師の真筆かどうかの点については専門家の鑑定に委ねたい。

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中関の弘法大師の名号碑

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中関村を歩いたとすれば、山本村では「山本の陣屋」から七栗神社へ向かっているか?ちょっとだけ街道から西に外れるので急いでいたとすれば立ち寄っていないとみる。この後、上伊那郡飯島町に入ったところで「ななくり」のことを書いているのだが、回想に「七栗の湯」が出てきても七栗神社のことは一行も割いていないことから想像できる。

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山本陣屋跡

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七栗神社

山本から先はどこを歩いたか?二ツ山と三ツ山の間の旧道から、伊賀良村北方、切石村を歩くのが一番可能性があるルートだろう。とすれば増泉寺の垂れ桜は間違いなく見ている。

増泉寺の夜桜増泉寺の夜桜

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旧道沿いには馬頭観音や庚甲様の石碑が多くある

難しいのは通称丘の上と現在呼ばれる飯田の城下街へは、どのルートかである。一番西であれば「白山神社」に出るルート、中心であれば飯田市役所へ出るルート、一番東であれば愛宕坂を上り、飯田市動物園横に出るルートが想定される。ただし愛宕坂ルートは久米路街道からの移動であることが条件であり、やはり中馬が通りやすかった現国道に近い市役所へ出るのが常套か。

愛宕坂3真澄はこの愛宕坂を下りて松川の桜を見に行った。

さてこうして、ようやく着いた飯田町は3月に、焼失家屋208戸という大火の後で、訪ねる家はどこにあるのか途方にくれることになる。

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