真澄が立ち寄らなかった園原はちょうど今、花桃が咲き誇っています。ここには古い歴史や伝説が残っているので、ちょっと閉話休題。
阿智駒場は古道「東山道」の阿知駅があった。飯田や阿知は天武天皇の御代から馬の生産が盛んで“馬の古墳”も多く残っている。都に直結した東山道は、事あれば騎馬軍団が走り抜け天皇のために働いた。このため飯田が遷都の候補地として天皇の手の者が調査をしている。東山道は戦時の古道であり情報流通の道でもあったことが伺えるのが、日本最古の「富本銭」や「和同開珎」が出土した飯田市座光寺恒川遺跡郡や高森町の武陵地一号古墳があることだ。東山道が国内各地に貨幣経済や宗教、伝承を拡散する重要ルートであったことを物語る。
さてその東山道は阿知から園原、そして神坂峠を抜けて岐阜県中津川市に向かう。ちょうど現在の中央自動車道の恵那山トンネルのルートだ。峠は標高1576mと東山道最大の難所。記紀で日本武尊が霧にまかれ、道に迷ったところ犬が導いたと記述される。なんと神坂神社には日本武尊が越掛けたという石もある。最澄も東国布教のため難儀をして峠越えをしており、後に旅人の休息場所として「布施屋」を建てている。
園原にまつわるメジャーな人物と話は、こればかりではない。
●「源氏物語」や「枕草子」に出てくる園原
帚木(ははきぎ):遠くから見れば箒(ほうき)を立てたように見えるが、近寄ると見えなくなるという伝説の木で、源氏物語の「帚木」で光源氏がなかなか会えぬ空蝉に「帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな」と詠んでいますし、「母」に通うことから、まだ見ぬ母の喩えにも使われた。清少納言も「原は みかの原。あしたの原。その原」と書いており、平安の女流文豪たちも信濃の園原に幻の帚木があると認識されるほどメジャーだった。
●義経と炭焼き吉次(長者)伝説
源義経と金売吉次の伝説は各地にあるが、吉次は「平治物語」や「源平盛衰記」「義経記」に登場する平安末期の商人で、奥州の金を京都で売る商人とされている伝説の人物だが、その派生で夢のおつげで都から園原の炭焼き吉次に嫁いだ客女姫が黄金のありかを教え、近くにあった黄金を掘り出して大金持ちになり、後の金売吉次となるというストーリーもある。
園原の伝説は後者に近く、吉次に関連する伝説も各所にある。
なかでも有名なものが、神坂峠を越えて奥州へ義経を逃す際に義経の馬を繋いだとする「駒つなぎの桜」だろう。樹齢400~500年と推定される駒つなぎの桜と800年前の義経では、矛盾しているのはご愛敬。神坂神社には樹齢2000年の杉と栃の木があるが、これもご愛敬だ。全国に千年を超える巨木があり、そのほとんどが根拠の無い伝説であり、千年二千年なんて木を切り倒さない限り分からない。
吉次の話は真澄や平賀源内と鉱山の係わりで、再度触れたい。
●木賊刈り
シダ植物門トクサ科トクサ属の「木賊」は、信州各地に自生している。固くてザラザラした茎から、研磨剤として用いられたため「砥草」とも言われ紙やすりのような使い方をした。
平安時代から園原はこの木賊の名産地として知られ、「木賊刈る 園原山の木の間より 磨かれ出づる 秋の夜の月」(源仲正)と詠んでおり、最澄が建立した月見堂(広拯院)に歌碑がある。
一六世紀に創られた狂言「木賊」は、歌舞伎「木賊刈(とくさがり)」や能の「木賊」など様々に派生した。「木賊刈る」は秋の季語ともなっている。
狂言では「身の為にも木賊刈りて」と草刈る型を見せるが、聞いた話ではこの刈りかたが、間違っていると園原の方が指摘し、その後所作が直されたとか。
因みに木賊色は平安貴族に好まれた色で、渋い緑色は「陰萌黄(かげもえぎ)」と呼ばれ『宇治拾遺物語』や『義経記』に登場する。