真澄の最初の旅レポート『委寧能中路(いなのなかみち)』は、次の前文から始まる。
「私は、この日本国中あるすべての古い神社を参拝して回り、幣(ぬき-賽銭)をあげたいと思い立ち、、、」ところが古い神社がある駒場や山本の神社には寄ったという記録が無い。天明二年に木曽路を歩いた時はちゃんと神社を参拝して、画も残しているというのに「白波に遭って後は書き留めなかったのか、それとも飯田まではまったく違う理由で歩いていたのではないだろうか。所々欠けている岡崎から飯田、そして新潟に加え、理由不明の長逗留の地もある。旅日記は正体を隠す隠れ蓑であったようにも感じる。
浪合を出立した真澄は、中馬街道(現国道153号線)の寒原峠を越え、阿知の駅駒場(こまんば)へ向かう。現在の阿智村駒場(あちむらこまば)である。駒場とは文字通り馬の放牧地であり、阿知の駅は天馬・中馬の駅であった。
この「中馬」には名古屋~飯田間や飯田~岡崎間を通して煮を運ぶ「通し」と宿場間を往復する「まくり」「つけ馬」があった。「まくり」「つけ馬」は街道周辺の農家が参入したため百姓馬とも呼ばれた。逆に「通し」を行うには、高い敷金(品代金の半額以上)を払わなければならず、自ら仲買人となり流通業者となる中馬もいた。
この中馬は今で言う「デコトラ」のように、煌びやかで馬追も威勢が良かった。いわばトラック野郎の江戸時代版といったところで、一番星桃太郎ややもめのジョナサンみたいな人もいたかもしれない。
小さな峠を越えて駒場(こまんば)が見える会地村曽山に出る。ここにも五軒の馬宿があり中馬で繁栄していたという。真澄は秋田では泉を見つけると結構大事に書いているが、秋田に行くまでは泉の話も出てこない。浪合では写真のような掛樋を見たとの記述はあるが、曽山(阿智村)の井戸のことは書いていない。この井戸は峠越えしてきた旅人にひとときの潤いを与えた大事な井戸であり、きっと真澄も飲んでいるはずなのにだ。
曽山集落遠景・バックには飯田下伊那に流通の変革をもたらした現代の中馬街道の中央自動車道が縦断している
澄は駒場を一気に抜けたのだろうか?曽山には「白髪神社」、駒場の旧道には西暦368年創建(これは古墳時代であり得ない)「阿布地神社」、そして春日には「春日神社」がある。古い神社を参拝しつつ山本村(飯田市山本)に向かったのか。
因みに「阿布地」はビャクダンの別名だが、この神社は古くは「吾道(あち)大神宮」と言われていたというからビャクダンを語源とするのではないだろう。
蛇足だが『鬼平犯科帳』で登場する「蛇(くちなわ)の平十郎」の配下に「駒場の宗六」という盗賊が出てくる。駒場という地名は馬の放牧地であれば付いた地名であり、この盗賊の出身地が阿智村駒場であるかは池波正太郎さんに確かめるしかないが今は確かめようがない。