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民俗学の祖・菅江真澄考の再開

釜井庵3真澄が一年間暮らした釜井庵(本洗馬)

出自不明で謎の紀行家とも言われる真澄。とは言うものの出自不明で謎の人とされるが、真澄本人が言ったとされる「白太夫の家系」も証明されていない。 この「白太夫」とは何者か? 『日本書紀』に登場する菊理媛(くくりひめ)を信奉する家系とされる伊勢神宮の宮司であった白太夫が、世継ぎを願った菅原家の祈祷を行い、菅原道真が誕生したとされる説や道真に付き添った、あるいは都から「飛梅」を太宰府まで届けた等々の、やはり謎多き人物です。 菊理媛も書記にたった一度しか登場しない謎の媛神で、ここから紐解くと謎が謎を呼び混沌の世界へ墜ちるので、別件で書きたいと思う。 真澄は柳田国男に「民俗学の祖」と見いだされるまで、まったく無名の人であった。真澄を高く評価する一方で柳田は和歌を酷評したが、真澄の生き様を見るには、画と文と和歌のセットが外せないように感じる。 真澄は上田義方(逝去するまで連絡をしていた)に国学、和歌を岡崎の塩問屋、国分右兵衛に、画を尾張南画の祖である丹羽福善斎、本草学は尾張藩お抱えの浅井図南に師事した。 様々な学びをしたものの、いわゆる器用貧乏だったのだろう。画や和歌単独で生計を立てるほどの力量はなかった。 その真澄が岡崎を突然に旅立った。最終目的地は蝦夷(北海道)だった。 この唐突な旅の始まりの要因はなんであったのか。 かなり眉唾な説に尾張藩の密偵だったとの話もある。 密偵と言えば、有名な話に松尾芭蕉が出てくる。芭蕉は伊賀の生まれで服部半蔵の血筋でもある藤堂藩の武士だった。となれば伊賀忍者であっても不思議では無く、伊達藩を始め東北の動向を探るために幕府が命令したかもしれない。奥の細道に随行した弟子の曽良は「巡見使」であることは間違いなさそうだ。俳諧では弟子でも「密命」を帯びて芭蕉に帯同したのだろう。だから一行は関所を簡単に通過できた。忍者として鍛錬していなければ50歳頃に一日50kmを歩けない。 真澄も密偵として信州から新潟経由で東北に至り、さらに北海道まで渡った。そう考えれば、真澄を送り出した義方とだけ連絡を密にしていた理由も分かりやすい。 塩尻の本洗馬に一年滞在したのは、天明3年の浅間山大噴火の影響の情報収集を行いつつ、高遠藩や松本藩、さらには真田藩の動静を探っていたのかもしれない。 これは再び、本洗馬歴史の里資料館に行き、館長の見解を聞くことにしよう。 さてユルユルと再開で、今後もいつ書くかは不明です。取りあえず塩尻~松本~長野~新潟方面を探査しつつ、再び山形、秋田、青森を辿ることになるでしょう

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