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大原幽学と先祖株組合1

大原幽学(大道寺左門)は尾張藩の大道寺直方の次男として1797年(寛政9年)4月に生まれた江戸時代後期の農政学者です。18歳の時、刀の鞘が触れたことで喧嘩となり剣道の師範代を切ったことで家を勘当されます。その後近畿地方を遍歴する中で医学から農業まで様々な勉強を重ね、天保元年に信州上田(今や真田丸で賑わってます)の大手門近くで、門人を募り講義をしていたところ、藩から「怪しいやつ」と講義活動は禁止。やむなく江戸へ向かい、さらに房総半島入りを進められました。1835年(天保6年)に千葉県旭市長部(下総国香取郡長部村)に農民指導者として招かれ村に定住。1838年(天保9年)に世界で初の農業協同組合と言われる「先祖株組合」を作りました。

この幽学と同時期に二宮金次郎(尊徳)が現れ、後の「報徳社」の精神となる「五常講」(仁義礼智信)を元にした生活を助けるために資金を貸し借りする制度を打ち出します。そのため世界で最初の信用組合は、どちらも最初と言われ世界では同等の扱いです。

ところがその後は、皆さんもお分かりの通り、金次郎さんは小学校から習いますが、幽学のことは皆無なんですね。

幽学と尊徳。決定的な違いは、元百姓の金次郎が武家再興の手伝いをして武士の側になっていくのに対して、幽学は武家出身でありながら農民の側に立ったという点です。結果として幽学は幕府から睨まれ、先祖株組合は潰されますが、尊徳の思想は「報徳社」に受け継がれ現在もあることです。

簡単に言えば、権力者側に都合の良く、時には弱者を切った尊徳が残り、弱者を救い続けた幽学が消された訳です。

幽学は女子や子どもの教育に熱心力を注いでいましたが、尊徳さんは婦女子の教育など一言も言っていません。教育者としても高く評価されるはずの幽学が、顕彰されず何故か学校には金次郎さんの銅像が建っているという事実を皆さんはどのように判断しますか?

幽学は神道や儒教、仏教を融合した独自の「性学」という実践する道徳を教えるほか、農業技術や耕地整理(今で言う区画整理と交換分合)といった農業構造改善を指導しつつ、女子・子どもの教育に非常に熱心だったようです。

「先祖株組合」とは、村民が所有地(一人5両分の土地)を提供、その所有地から上がる収益で困窮者を助けたり、土地改良や農地開拓を行う種銭をつくるものです。元々は幽学の門人達が、毎年「二百文」を無期限で出資(保険ですな)して共有財産を作り、これを利子付きで貸して、講中の不幸に備える「子孫永々相続講」という講の集まりが出発点です。その延長線で金では無く、「農地」を出資させ、飢饉などに対応できることを思いついたのでしょう。

簡単に言うと村の「相互扶助組織」を自分たちが持つ土地を物納して作ったということで、瓦解しつつある集落や地区のコミュニティに今こそ、この教えが必要ではないかと思います。

しかしこの動きや教えは危うくなっている幕末の統治者からするとヤバいと感じたわけです。そして幽学の教道所「改心楼」を関東取締出役の手先(まあ政府御用達ヤクザです)が乱入(何故か乱入)。そして何故か幽学が捕まり5年に及ぶ裁判で有罪(冤罪です)が確定(押込百日と改心楼の棄却、先祖株組合の解散)し、指導も禁止されます。失意の幽学は1858年(安政4年)墓前で切腹しました。

さてさて明治に入ってから、歴史がどれほどねじ曲げられていったのでしょうね。・・・続く

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