牛頭天王の祟りを断定した清和天皇は、祇園社にて御霊会を行った。まあ1回だけの疫病退散祈願イベントだったわけだ。ところが祇園祭りは数回の中断をしながらも、京都の町衆によって復活する。
補助金が無くなれば終わるイベントではなくなったわけだ。
「日本の祭りで最も重要な一つの変わり目は、見物と称する群の発生、即ち祭の参加者の中に、信仰を共にせざる人々、言わばただ審美的立場から、この行事を観望する者が現れたこと」と柳田國男は、観客が現れたことによって、祭礼(見られる祭り)が出現したと述べている。
つまり、京町衆が催行する祇園祭となったことで、「信仰」から「イベント」への変容があったのであろう。
これを見た各地の大名は、我が国も京都のようになりたい!人心の掌握には祇園祭りのような催しが良いと思ったのだろう。
柳田は「祭礼は美々しくはなやかで楽しみの多いもの」と述べているが、政治を祭事(まつりごと)というように、地域の統治者が祭りの力を利用したケースが多々あることを認識しておく必要がある。
中世以降、特に江戸期から生まれた「まつりイベント」は、見物人ありきの姿勢を貫き、派手(華麗)な仕立てで大きなエネルギーを有している。
この中心に位置するものが祇園祭りだ。
そして祭りの華麗、荘厳、民のエネルギーを引き継ぎ、「屋台」「だんじり」「ちょうさ」「太鼓台」「山笠」などが各地の技や風土と絡み合い、独自の祭りに発展していった。
同じ系列と解るのは「かく」という共通用語だが、なぜ担ぐではなく「かく」というかは調査していないので悪しからず。
現在の祭りは観光経済の中で部外者の対象となり劇場化してきた。地域は外貨獲得のために、次の地域の担い手である子どもたちさえダシにしているところも見受けられる。
柳田は「年にただ一度の大祭だけに力を入れて、常の日に神を懐かしむ者が少なくなって行く」と郷土の連帯の信仰が変容することを懸念していたが、まちづくりむらづくりだ、地域活性化だとの理由で祭りの本質・伝承を「きれいごと」に変容させて「後のまつり」で済ませていないだろうか。
さて、これとは別に全国へ伝播していった七夕行事があるが、それはいずれここで。