真澄が飯田へのルートで使用した飯田街道は、信州を通過する中山道には劣るものの当時、賑やかな往来であった。
交通手段はもちろん徒歩で、真澄も馬に乗ることもなかった。馬は主に荷運びが中心で曳いて歩く『天馬』と『中馬(ちゅうま)』が行き来していた。天馬は公の運営で中馬は民の運営である。現在と同様に“公営”の天馬はサービスが悪く、このころは商人を中心に軒先まで荷の扱いをする民間宅配便の中馬が多用され、農家の副業であった初期の中馬から専門の生業となっていった。
賃馬(ちんば)から変化したとされる中馬は、元々百姓が農耕馬として有しており、馬の背に生産した農産物を乗せて周辺の城下町へ売りに出ていた。
長野県は海がなく高冷地のため塩製造と綿栽培できず全てを他地域に依存しており、日本海側と太平洋側双方からの「塩の道」は、同時に「綿の道」でもあった。殊に真綿は繭糸を接着させた糸偏の「綿」でなく木偏の「棉」で「真の綿」(まことのわた)と呼ばれた。信州では棉花の代わりに大麻を栽培し衣服に加工し寒さを凌いでいたが、繰綿(種を取り除いた未精製の綿)が三河地方からの塩の道で届けられると、信州人は麻布より温かい木綿を手に入れたくて一生懸命に働いた。
このように信州人には木綿は貴重なもので、昔は綿入れはんてんはお客様に着せることがもてなしのひとつであった。
旧暦の4月1日と10月1日を「衣替え」というが、昔は「綿抜き」と「綿入れ」という文字通りの日で、私の祖母も中綿を抜いたり入れたりしていた。近年長野県南木曽町の「ねこ」と呼ばれる背中だけの綿入れはんてんが脚光を浴びている。
南信州でも同じように「ねこ」をそれぞれの家で布団の真綿をリサイクルし年寄りたちが背中に背負っていた。本当は袖まで綿入れをしたいところを高級な綿であり背中のみに使用していたわけだ。
江戸時代の通常の物資輸送は、海上を行く北前船や廻船と内陸部へ川を往来する舟運(しゅううん)が一般的だった。しかし逆ルートの物資輸送は内陸の山間部である南信州へは一部に帆掛け船による舟運があったものの急流の天竜川のため困難を極めた。
そこで登場したのが『岡舟』とも呼ばれた中馬である。『天馬』は藩に届けられている馬で、中継所(宿とか駅)で荷を積み直す継馬(つぎうま)の制度となっており、煩雑な上に手数料が加算される。しかし中馬は同じ馬が運ぶ“通し馬”で、しかも中継所に留め置かれることなく庭先から庭先まで運んでくれるという利便さから、中馬が運送の核となっていきった。
飯田への中馬ルートは岡崎から大中継地の足助宿を通る飯田街道(中馬街道)と、名古屋から中津川を通る中山道を経て、脇街道の妻籠宿から清内路峠を越えてくるルートが中心であった。
さて次回はその大中継地であった足助町の話になる。