一覧たび談

消えつつある「集落食」(日本農業新聞連載コラム)

コラムタイトルの「さなぶり」は本来「サノボリ」という。サとは稲で、田植えが終わる(登る)から変化したそうだ。稲作にまつわる行事は、縄文時代に日本に伝わり稲と共に東北まで北上した。しかしこの「さなぶり」を含めた一年間の「農事」を昔どおり行っている農家は今あるだろうか。
飯田下伊那地方の「さなぶり」は、稲苗を二束と実った稲に見立てた枯ススキを田んぼの水口に供える。つぎに家の神棚へ御神酒と稲苗を供え、「ぼたもち」と身欠けニシンかコイの甘煮の「さなぶり」料理を食べるというやりかただ。
今でも集落で手を貸し合う「結い」があるが、昔の人たちに聞くと「さなぶり」も皆が集まって宴会が相場で、「あすこの田んぼはどうの。まだ、あの家は「さなぶり」じゃあねえ」とか、酒を酌み交わし一晩を過ごしたそうだ。
農村では家食とこのような集落食、外食は主に旅食だった。中でも集落食は、祭りや祝い事などで各家庭の得意料理を重箱で持ち寄り、それを肴に酒を飲む。そして残り物を重箱に詰めて帰ると子どもたちが待っていて、親は「これはどこそこの家の煮物。これは誰が作った漬物だ」と説明し食べさせた。女性たちにとっては大変で古い風習とか悪弊と言うかもしれないが、子どもたちはそうした大人たちの集まりは楽しみであり、隣近所の食や人、暮らしを覚える上で大切な食育であったといえる。
「さなぶり」に限らず「農事」は毎月あり、必ず旬の行事食がセットとなっていた。その行事食は各家庭だけでなく集落の集まりで振る舞われることが多く、重箱も大活躍したが今では稀に冠婚葬祭で登場する以外は見かけなくなった。
この集落や地域の食が仕出しへ変化していく過程で、地場農産物の消費減少や遊休農地の増加、固有の伝統行事が消え、農村コミュニティが希薄となっていく。そしていつしか地域に残る若者が激減していった。若者が外へ出て帰らない、跡継ぎがいない、農産物が安いと大騒ぎする前に、手間がかかるかもしれないが、もう一度この地域食や農事の復活から見直しすべきだろう。

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