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勤王ばあさん?松尾多勢子の生誕200年

松尾多勢子の生誕200年といっても飯田の方々以外は「誰?その人?」だろう。

飯田は現在でも交通の不便な地ですが、奈良時代より東西日本を結ぶ文化の回廊の要地として栄えたことで、常に東西の文化や情報が流れ込んできました。それゆえに隔絶された山国の住民は、どん欲に各地の様々な情報や当時の先進的な考えを学ぶ風土が育っていったのです。

松尾多勢子(まつお たせこ)は幕末に活躍した女性です。

多勢子(1811-1894)は、現在の飯田市山本の庄屋竹村家に生まれました。父の常盈はたいへん教育熱心で12歳で読み書きや和歌を学ばせたといいます。

豊丘村の豪商に嫁ぎ6男4女を育て上げた後に、平田篤胤の養子の鉄胤に入門し、男たちに混じって国学を学んでいたということですから、男女共同参画とか地位向上なんていう言葉が恥ずかしいくらい普通に勉強ができたのですね。

多勢子が51歳のとき、皇女和宮降嫁の行列を見てから、彼女は居ても立ってもいられなくなったようで、夫の許しを請い上洛(京都へ行く)をします。

「つとにせむ都こ大路の草まくら うき世の中にむすぶ夢しを」人目に付かないよう飯田を出て行く時に詠んだ句ですが、とにかく急変する国を憂いてということですから、意志を貫いた彼女もすごいですが、それを黙って出した夫の懐の深さは大したものです。

京に出た多勢子は、老女で怪しまれないため勤王派の公家岩倉具視の家に雇われたのですが、どうやら岩倉が裏切らないかのスパイとして送り込まれたようですね。倒幕の志士の一員として志士の連絡係や密偵を勤め、坂本龍馬や大村益次郎などとも親交があったようで、若い志士たちの面倒をよく見たため周りから「勤王の母」あるいは「勤王ばあさん」と慕われました。晩年は岩倉家の家宰として過ごしました。

激動の時代、会津藩主とともに京都守護職であった飯田藩主と農家出身の勤王ばあさんが京の都で渡り合ったことは、何とも不思議な感じですがまったく無名の飯田の人間が学び行動した事実であり、大衆であろうと政府の閣僚であろうと、学びに上下も男女もない地域性を感じていますし、時代に無関心でなく学び続け行動することの大切さを実感しています。

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