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鬼復活プロジェクト・シニア始動!

吉備津神社

吉備津彦神社

1/29、鬼プロの自称シニアチームで岡山県総社市に入りました。プロジェクトメンバー「吉備野工房ちみち」の加藤せい子から来て欲しいと依頼にシニアが動いたのです。

岡山駅で待ち合わせし、大吉備津彦命を主祭神とし備前流神社様式の吉備津彦神社、別名「吉備津造り」とも呼ばれる比翼入母屋造りの壮麗な吉備津神社、鯉食神社、王墓の丘を訪ねました。

なぜ吉備路の総社市に鬼復活プロジェクトが訪問したかその背景を少し・・・。

吉備は今の岡山県で西側の「備前」「備中」と言われる地域にあります。備中と言えば農家であれば「備中クワ」を思い出すでしょうし、備前と言えば「備前長船」という名刀といずれも鉄の大ブランド品を産み出した地域です。

江戸時代末期、備中松山藩の財政難を救うため、陽明学者の山田方谷が「鉄」に目を付け歯が2本から5本の「備中鍬」発明し、それが爆発的にヒットしたことで地名の「びっちゅう」がそのままクワの通称名で全国的に定着したのです。

吉備は真砂鉄や鉄鉱石の産地で、6世紀頃には優れた製鉄技術を有し、機内や出雲と並ぶ勢力を持つ列強国であり、巨大古墳文化を有していました。

鬼と呼ばれた温羅がいた時代は諸説あり不明ですが、『備中一品吉備津彦明神縁起』『吉備津宮縁起』などに登場してきます。別名、吉備冠者(きびのかじゃ)、禍又温羅(かしゃうら)、丑寅御前・御崎(うしとらみさき)と呼ばれ、第7代孝霊天皇以降第11代垂仁天皇以前に、吉備の国に勢力を持っていたとされています。

鬼としての温羅は、両目は虎や狼のように爛々と輝き、乱れた髪の毛は燃えるように赤く、身の丈は一丈四尺(約4メートル)あったそうです。頭にコブがあり、妖術を使って口から火を吐き変身したといわれており、鯉食神社は鯉に変身し逃げた温羅が鵜に返信した吉備津彦が食べたという縁起からです。

?先に吉備津彦神社を廻り次に吉備津神社だったのですが、極めて近いところに同じ主祭神の神社で、なぜか一品宮の称号を持つのは藤原純(住)友の乱(当時、関東では平将門が反乱)のときに純友側についた吉備津彦神社が最上級の神社なんです。

ところが吉備津神社に参拝すると、本殿に錦の御旗が・・・。吉備津神社は天皇が支配する吉備の国とPRしつつ吉備国内を武力で掌握していることを示す神社で出城の存在であったのではないかと森本氏の気づき。なるほど、矢置き場があり軍神としての色合いが濃い。

さらに温羅という鬼(怨霊)を鎮めるため、吉備津神社本殿の裏手の長い回廊を下ると首を埋めたとされる場所に御釜殿があるのです。つまり吉備津神社は出雲大社や太宰府天満宮と同様の怨霊鎮めの神社である推量できます。

御釜殿は釜鳴りの神事(吉備津の釜に水を張り湯炊きし、そのときに発する音で吉凶を占う)で有名で、伝説によると、白村江の戦いから吉備国に逃れた皇子(温羅)が土地の豪族であったが、朝廷から派遣された吉備津彦命に首を刎ねられ埋められたが、首は大声でうなり声をあげ続け吉備津彦を悩ました。ある夜のこと吉備津彦命の夢に温羅が現れ、温羅の妻である阿曽媛(あそひめ)に神饌を炊かせば、吉凶を告げようと言ったことから神事が始まったそうです。

その後は阿曾媛(現在兵庫県揖保郡太子町)の出身地から代々、神事を司る媛を招いたそうであるが、さすがに現在は巫女を公募して釜鳴り神事を行っています。

吉備津彦命が夜も寝られないノイローゼに陥ったのは、当時、謀殺すると祟りがあると信じられていたからです。つまり温羅は、明らかにだまされて討ち取られた証拠であると言えます。

さて、鯉食神社を廻り昼食は、吉備路ラーメンを食べましたが、その話は次回で

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