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改めて地域再生を考える7

地域の総有で実に面白い事例があります。
 私が毎月伺っている阿智村清内路の上清内路に残る「一山一墓」
 集落共同墓地で「一山総墓」とも言われます。上清内路では村人が亡くなると、個人墓ではなく全員が同じ墓に入るのです。
都市部では墓がないと嘆きますが、上清内路に住めば墓は確保したのと同じです。東京からの移住者は「家を購入したら、お寺とお墓が付いてきた」と話をしていました。
 SBCのドキュメンタリーでも「みんなで一つの墓に入る村」として紹介されている上清内路。これは単なる合葬墓ではなく、背景には生きている間は同じ山で暮らし、死んだ後も同じ墓で眠るという共同体思想があるからでしょう。
 近代以降の日本では家墓が一般化しましたが、清内路にはそれ以前の共同体的祖霊観が残ったと考えられ、自治体が失ってしまった地域の絆が、旧村単位で非常に強く残っているのです。
■「一山一家(いっさんいっか)」は南信州の特徴
一つの山を集落全体で所有し、その山の中に共同墓地を持つ仕組みは、日本の農山村で広く見られた「総有」の典型で、農山村や入会地の文脈で使われてきました。
 その制度を色濃く残すのが、飯田市遠山郷や周辺の山間集落、岐阜県白川村、奈良県十津川村などに残っています。
 「○○家の先祖」ではなく、村を形成してきた祖先として敬われてきましたが、それを潰したのが明治政府です。明治政府は地租改正や私有財産制度、さらに負荷調整の「家制度」を導入したことで、それまで共有林や共有地などの「一山」は個人所有に、一墓は「家墓」に変化したのです。
 政府にとって自立した「共同体」は、それぞれの地域の「自主・自立」が国家の邪魔だったわけです。
 余談ですが政府が権力と財源の一極集中を高めた例に、廃仏毀釈と酒税の創設があります。
 共有林+共同墓地+共同祭祀(氏神様の祭り)は住民生活に密着していました。飯田市の遠山郷や下伊那南部、さらに三河地方に残る「掛け踊り」は祖霊(先祖の霊)を祀る集落共同体の祭であり、その共同体の中心は山でした。
冒頭で上げた旧清内路村には、住民が手づくりする花火(これも祖霊を祀る意味あり)が残っており、共有の山林(一山)をベースに一墓、一祭が連綿と続いており、この共同体が日本の希望となっていく可能性があると思っています。
 昔の村人は、山だけ共有しても続かないし、墓だけ共有しても続かない。祭だけ共有しても続かないことを知っていました。利益を生む山の経済と村の先祖を継承する墓、世代・人を結びつける祭を一体で運営する「総有共同体」として機能していたのです。
 これらから「一山一墓一祭」は単なる民俗ではない生き残るための制度設計をしていたと考えます。
 この痕跡が南信州に残る飯田・下伊那の集落は、古くから山村社会で耕地よりも山林への依存が大きく、産業から生活までを山から得ており、部落共有林や財産区有林が発達しており、山そのものが共同体の基盤だったのです。飯田市歴史研究所の研究でも、「山林と山里」は地域景観を形成する重要な要素として扱われています。
 飯田・下伊那で残った理由は地形であることが明白です。
 谷ごとに集落が分かれ、峠で外界と隔てられているため、自給的生活が長く続いたことが大きな要素です。前述した清内路も、木曽谷と伊那谷を結ぶ清内路街道一本で、独特の生活圏を形成しているという特徴があります。ゆえに個人よりも共同作業(結い)などが優先される文化が残りました。
現代風に訳せば、村は単なる居住地ではなく「資産管理会社+福祉組織+宗教法人+自治体」を兼ねている、とても合理的かつ小規模で自立する共同体たったのです。
 これが「縮重社会における新しい総有」の重要なヒントになると思います。
 この辺は別途、「伊那谷から始まる総有文明論―自治体の後に来るもの―」として書きますので乞うご期待!

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