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劇場化する「まつりイベント」

まもなく夏祭りのシーズンに入る。飯田の夏祭りシーズンインは富士山稲荷神社からだ。77日の七夕に行われる祭りは、梅雨明け間近を感じさせるが、この時期は必ず一降りするのも五穀豊穣の祈りに応えてくれているのだろう。

日本各地に残る「虫追い行事」では稻わらを持ったり、鳴り物を使うところ、たいまつを振るなど様々であるが基本は豊作祈願であり、本稲荷神社の行事もその流れにあり、別名、麦わら祭と言われ、かつては麦わらを持ち、虫を追う「虫追い」がされていた。

沖縄地方にも4月後半に行われる麦の初穂を神仏に供える麦の収穫祭「麦穂祭」の伝承があるものの今日ではほとんど行われていない。

同様の行事に「祇園祭」や「津島様」の祭がある。

飯田市三穂立石地区に伝わる祇園祭は200年以上前から挙行されている。飯田の中心市街地に至っては「津島様」(津島神社信仰)が細々と残るのみで京都の祇園祭の華やかさはない。

立石の祇園祭は地区の中心にある津島神社への五穀豊穣、無病息災などを祈願し「鯖の姿寿司」を奉納する。毎年714日に行われており、獅子舞や囃子屋台が登場します。

選択無形文化財に指定されている下伊那郡阿南町の「深見祇園祭」は、立石地区より規模が大きい。この祭りの起源は、江戸時代の天保7年(1835年)に、はやり病を鎮めるために尾張の津島神社より分霊を迎えたところからと言われている。深見池に筏(いかだ)を浮かべて幣束(へいそく)を投じる。つまりここでは祭の意味が五穀豊穣というより、はやり病(祟り神)を追い払う儀式ということで、「神送り行事」がその原形となっている。

南信州における神送り行事の多くは2月であり、初夏の神送りは「深見祇園祭」特徴といえる。

京の祇園祭はそれらの「民俗信仰」から「イベント」への変容していったものであろう。

柳田國男(1875-1962)「日本の祭りで最も重要な一つの変わり目は、見物と称する群の発生、即ち祭の参加者の中に、信仰を共にせざる人々、言わばただ審美的立場から、この行事を観望する者が現れたこと」と、観客が現れたことにより祭礼(見られる祭り)が出現したと述べている。

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昨今は信仰や地域文化に依拠しない「まつりイベント」が時代の流れや観光振興ニーズとして全国で勃興しているが、江戸期より興った祭礼も同様に、多かれ少なかれマスツーリズムの中に飲み込まれている。

中世以降、特に江戸期から生まれた信仰に寄らない「まつりイベント」は、見物人ありきの姿勢を貫き、派手(華麗)な仕立てで大きなエネルギーを有する。柳田は「祭礼は美々しくはなやかで楽しみの多いもの」と述べているが、政治を祭事(まつりごと)というように、地域の統治者が祭りの力を利用したケースも多々あることを認識しておく必要がある。

現在の祭りは住民の手から離れ、観光経済の中で部外者の対象となり劇場化してきた。地域は外貨獲得のために、次の地域の担い手である子どもたちさえダシにしている。

柳田は「年にただ一度の大祭だけに力を入れて、常の日に神を懐かしむ者が少なくなって行く」と郷土の連帯の信仰が変容することを懸念していたが、まちづくりむらづくりだ、地域活性化だとの理由で祭りの本質・伝承を「きれいごと」に変容させて「後のまつり」で済ませて良いのだろうか。

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