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菅江真澄考・青森県平内町夏泊半島編2

本名は白井知之らしいが「白井英二」や「秀雄」、「白井真隅」ほか様々な名前を使っていた。50歳半ばにようやく「菅江真澄」を名乗るが、このように名前を頻繁に変えた人物に葛飾北斎がいて、幕府のスパイだったのではと現在でも言われている。
細川純子は「菅江真澄の文芸生活」の中で「ますみ」のペンネームは、日本書紀や万葉集から引いていると言う。それは「白銅鏡」(ますみのかがみ)である。
室町時代の辞書「易林節用」では「真角鏡」(ますみのかがみ)を、曇りがなく澄んだ鏡の意味の詩歌語であるとしている。
賀茂真淵は「冠辞考」で“真そ鏡てふ語は、真澄鏡てふ意味なり”と書いている。
真淵は真澄をずっと後方支援してきた植田義方の親戚であり、真淵の書物は読んでいたと思われる。

菅江真澄は隠密だったか
ふるさとを突然、出奔し旅立った真澄の目的は、蝦夷(北海道)探索だったとする説があり、マジメな研究者の方々からお叱りを受けるか笑ってスルーされることはあるだろう。
これはかなり眉唾であることを前提に推量してみた。
まず事実を羅列してみよう。
三河から信州飯田に入るまで半月も掛けており動向が読めず、さながら故郷からの追っ手を避けた逃避行のようにもみえる。
新潟から秋田に抜ける部分の日記などは新潟の関所で没収された。
北海道の松前藩にアイヌとの交流やシャクシャインの反乱関係で、危険人物と見られ鱈得られる直前に真冬の津軽海峡を慌てて渡った。
弘前藩で採薬御用を7年も勤めたにも係わらず、行動不審を問われ日記や紀行を押収され軟禁された。
秋田佐竹藩では藩内の鉱山のほとんどを巡っており、挙動不審と取られたなどがある。
真澄は三河吉田藩(藩主は後に老中首座となる松平信明)の植田義方(真澄の師)に、蝦夷地の金銀鉱山の探索を依頼されたと考えれば、別の顔が見えてくる。
当時幕府で権力を握っていたのは、かの田沼意次であり、松平信明とは犬猿の仲であった。
幕閣内でモノを言うのは「金」である。蝦夷にはその金銀が埋蔵されていることは周知の事実であり、田沼に先駆けて、いち早く開発の権利を確定したかった信明は情報が欲しかった。
そこで白羽の矢が立ったのが真澄である。この時代、藩侍が諸国を旅することは確実に密偵と判断される。もちろん公儀の目は厳しい。そのため歌を詠むフリーの真澄は適材だったのである。
真澄は義方のみと連絡を取っていた点(たぶん旅費も出ていた)から考えても納得がいく。
東北への密偵と言えば先人に松尾芭蕉がいる。松尾芭蕉
伊賀生まれで服部半蔵の血筋でもある藤堂藩の武士だった芭蕉が伊賀忍者であっても不思議では無い。
伊達藩を始め東北の動向を探るために幕府が派遣した可能性はある。
随行した曽良は正式な「巡見使」であり、表向きは俳諧の弟子を装いつつ、裏では密命を帯びて芭蕉を帯同させたとすれば納得がいく。

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