『東日外三郡誌』によれば、津軽地方に最初に定住したのがアソベ族とツボケ族が大挙して渡来してきたとする。アソベは安部であり安東一族であるのは確定だろう。
そのアソベやツボケはシュメールから流れてきたと以前に書いたが、ユーラシア南部の民と同じDNA分析で明らかになっており、これが日本の縄文人としている。中心は朝鮮半島から九州経由で北上した人々だが、西日本には先に到着した種族がおり、軋轢を避けた人々が日本海を北上し秋田・青森に定着した。
ただし日本人は単一のDNAでなく、かなり多様なミトコンドリアが混じる世界でももっとも多様性を持つ人間である。これは他を殲滅して自分のDNA保存に努めた漢民族とまったく違う。
三内丸山を始め、青森、秋田、岩手の縄文期が争いのない豊かな時代が続いた要因だろう。
縄文人は「稲作」を拒んだという。なぜならば稲作と戦争がセットだったからだ。
縄文人はやはり穏やかに暮らしたい優しい人々だったのである。
だがその後の歴史は諸説が生まれる混沌の時代となる。
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長髄彦(ながすねひこ)と安日彦(あびひこ) 一族がアソベやツボケと緩やかに混血していく中で、秋田から津軽まで日本海沿岸に勢力を伸ばしていった。安日彦が安部一族であり安東氏であると想像できる。
安部氏は盛岡市を拠点とした「安部貞任」を祖とするが「前九年の役」(1052~1062)で戦死。その息子高星丸(たかあきまる)が藤崎に落ち延び、成人の後に安東氏を名乗った。
鎌倉時代になると、安東氏は幕府から「蝦夷管領」に任じられ、蝦夷との交易権を手にした。
平安時代末期に開港した十三湊(青森県五所川原市)が、日本三津七湊(現在の国際拠点港)に数えられ、15世紀後半まで国際貿易港として日本海沿岸の中心都市として、海外との交易を深めたのは安東氏である。
十三湊遺跡はまだ全てが発掘されていないので全容は不明だが、現在の発掘経過では中世の鎌倉期に繁栄を極めたことが分かる。1991年~1993年の調査で、ほぼ完全な町並みが発掘された。その規模は東日本で最大と言われ、西の博多に匹敵する貿易都市だったことが裏付けられた。
安東氏の支配時代はまだ特定されていないが、安東水軍は十三湊を最大限活かして様々な国と交易をしていたのだろう。
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文治年間(1185年~1189年)に藤原秀衡の弟(十三藤原氏)が福島城を築いたという。つまり十三湊周辺はこの時期、奥州藤原氏の支配下であったとする。それ故、義経北行で奥州から十三湊へのルートが浮かび上がるのだ。平泉の「黄金」も北海道から安東水軍が運んだものだ。
十三藤原氏と奥州藤原氏が、北海道の利権を独占していたのである。
しかし3代秀直のとき北条義時が十三湊を幕府の直轄地にしようと画策、藤原氏と同族の安東貞季(さだすえ)を津軽半島の蝦夷管領に任命したことで、寛喜元年(1229)両氏は「萩野台の合戦」で激突した。地元の「安東氏」に北畠氏の部下であった「安藤氏」をぶつけたのである。
これが後に「津軽大乱」と呼ばれ、鎌倉幕府の没落の一端となった大事件となってしまった。
幕府は従来通りの蝦夷対策をしただけだ。
専門家諸氏の通説では蝦夷の蜂起と安藤一族の内乱を発端としているが、鎌倉幕府から派遣された「安藤」と名乗るものと「安東氏」は繋がっていないと妄想する。
「内乱ではない」が私の主張だ。これは幕府と安東氏による北海道の権益の奪い合いである。
鎌倉幕府は最終的に、沿岸部は安東氏(安東李長)が治めるとする和議で「津軽大乱」は収拾した。
しかしその後、安東水軍は全国各地に散らばり、安東一族は「安部氏」として残ったが、十三湊は国際貿易港から外れていった。
蝦夷地に進出し、道南の一二館を経営、勢力圏にしたのは別の安藤氏であろう。
これが私の妄想見解である。