古代では大怨霊の力を借りて相手を攻めることが頻繁に行われた。
前回書いたように呪術は最大の武器であり、防御も最大の盾とした。
今から1300年前に創建された岩手県北上市にある丹内山神社は、土着神である多邇知比古神(たにちひこのかみ)を祀っていた。当時は「大聖寺不動丹内大権現」と称しており、本殿の背後にアラハバキ神の磐座する巨岩が祀られている。
あろうことか延暦12年(801)、坂上田村麻呂が東夷征伐の際にこの神社に参籠したのである。
これは敵の神を我が陣に取り込み、押し寄せる蝦夷側を恐れさせようとした例である。
アテルイは奥州市水沢当たりに住んでいたので、喉元でアラハバキ神を懐柔させたとの演出だ。
しかし田村麻呂は東夷征伐の後に、この神社を睨む位置に毘沙門天を祀り我が身を守っている。利用したが、よほど怖かったのだろう。
この神社にはどんな干天でも水が乾くことがない手水鉢があり、これは水神である龍神だ。
田村麻呂はアラハバキを蝦夷の神と見ていたようだ。
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異族の神を崇めて鎮撫する手法は、朝廷内で学んだ方法であろう。
田村麻呂は自らが信奉した神が、どのような姿をしているか理解している。いわゆる偶像崇拝であった。しかし異界の神は理解できない。もしかしたら日本書紀に登場した「両面宿儺」を想像したかも知れない。これは正直怖い。
そこで正体不明のアラハバキ神には同じ神を対峙させることを考えたのだ。
東北は蝦夷の国と思っていたのか蝦夷神をもって蝦夷を制することが、これより大和朝廷の戦略となっていった。
朝廷は東北から北は全部、蝦夷との見識だったのであろう。
私は北海道のアイヌの民でなく、アホベ族の末裔と見ている。
アラハバキ神は名もない東の神であったが、やがて門客人神として体裁を整えられ、大和朝廷の神杜に摂杜・末杜として組み入れられていったのは、こうした蝦夷統治政策のためだった。
キリストとイスラムのようなもので、いくら互いに信じる神を説いても理解しない。天照大神を頂点とする西の政権には、得体の知れない神を信奉する東北は恐ろしかっただろう。
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アラハバキ神を具現化したような武神アテルイに田村麻呂も手こずった。同様に後に朝廷を脅かした平将門にも手こずった。
そのため討ち取られたアテルイや荒夷(あらえびす)と言われた将門は、首と銅を切り離され二度と復活しないようにした。
これも呪法である。ところが首だけでも飛び回る大怨霊神として朝廷を悩ませることになる。
奈良、平安時代は怨霊が跋扈した時代である。
特に三大怨霊とされる菅原道真・平将門・崇徳天皇は、歴代天皇が恐れた。朝廷は陰陽師から自社を総動員して都防衛をしたが効果が無く、殿上人に多くの被害を出したことで、ますます怨霊鎮撫に力を入れたことは言うまでもない。それでも百鬼夜行なる小物の怨霊や妖怪も夜な夜な都を跋扈するようになっていった。
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更に「鬼」の存在である。
日本書紀に両面宿儺という飛騨の鬼を征伐したとある。「討伐された鬼人」とされるが、これは吉備の温羅と同じである。今の神岡鉱山を手に入れたかった朝廷は、地元で篤く信頼されていた豪族を「モノ」として討伐したのである。
歴史上では中央集権に従わない「まつろわぬもの」が「オニ」と一括りにされた。
時は下るが「酒呑童子」伝説も同様だ。源頼光は酒呑童子に「神便鬼毒酒」を飲ませ動かなくなったところで寝首を掻いた。しかし首を切られた後でも酒呑童子は頼光の兜に噛み付いた。
酒呑童子は越後国生まれの豪族。やはり製鉄技術を持つ渡来人の関係だ。
鬼と鉄は切っても切れない深い関係だ。
太古の鬼を「古代製鉄民族」を指す言葉だと断言する人もいる。
出雲風土記で出てくる鬼は一つ目の鬼であり、たたら製鉄で火により片眼を失った者たちであると言われる。
アラハバキ妄想編―東日流外三郡誌2で書いたが、岩木山の麓には鬼由来の神社や伝説が残る。そして岩木山北麓では平安時代前後の古代製鉄施設跡が多く発掘されているのだ。
これらの製鉄遺跡を普通に見れば、鬼とたたら製鉄の関係性が深いことが立証される。
都に出没したオニたちは、朝廷に鉄を簒奪された製鉄種族の恨みが、凝縮された姿と捉えても良いだろう。