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土着する・アラハバキ妄想編―諏訪明神と守谷氏

諏訪大社は「延喜式神名帳」(927年)には搭載されていない。奈良時代の延喜式には、「南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)・二座」とあり、これは現在の上社本宮と前宮に当たる。
現在の下社の春宮・秋宮は後に創建され四座と言う全国でも稀な神社となった。しかも神社の格は後でできた下社が高い。本来は古社である上社が上格なのだが「神別」(天津神・国津神の子孫)であり、下社は「皇別」(天皇の子孫)とされ特別だからだ。つまりは押しかけてきて乗っ取ったのが下社なのである。
わざわざ朝廷が内陸の諏訪を押さえつけたかったか?
諏訪神社は新潟・長野を中心に全国に5000社余で我が国でも有数の神社だ。後の戦国武将にも戦いの神として崇められていた。やはり物部一族の勢力は古代から全国に通じた武神と畏怖されていたのだろう。
諏訪大社上社
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諏訪の語源は「諏方(ス・ハウ)」ではないかと神道学の戸谷学は著書「諏訪の神」で述べている。
諏訪大社の主祭神「建御名方神(タケミナカタ)」が登場するのは、古事記の国譲りのみである。
諏訪の地の勢力争いは、諏訪明神と洩矢神の争いであったのが正解だろう。
ただし諏訪明神=建御名方(タケミナカタ)と簡単には言えない。何しろ古事記で突然、創作された建御名方神だからだ。しかも力比べで「武甕槌神(タケミカヅチ)」に負けたのに、国技館には「相撲の神様」として祀られている。とても不思議なことだ。
負けた土着神の守屋(洩矢神)は当時、長野県から新潟県に及ぶ大きな氏族だった。
どうやら氏族の長は物部守屋からきているようだ。
余談だが、縄文のビーナスがある尖石縄文考古館の館長は『守矢』さん。笑っちゃうけど、ほぼ直系の子孫でしょうね。
古代日本で饒速日命を始祖とする最大の軍事氏族で、鉄との関連が強い。そのためか諏訪には銅鐸ではなく「鉄鐸」がある。出雲の文化であった銅鐸でなく鉄鐸とは、これも不思議な事柄であり、明らかに出雲の直系とは違うことが明らかだ。
守屋大連(おおむらじ)の時代は、蘇我氏と二分した力を朝廷で発揮したが、親神社派の物部と親仏教派の蘇我氏との宗教対立が激しかった。しかし蘇我氏が天皇の外戚となるなど次第に権力を手中に収めていく中で物部氏は没落。後に『石上氏』として復権を果たした。
物部=石上(神)であり、ミシャグジとの関連性が色濃い。
この件は再度、検証が必要だろう。
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諏訪明神を記録した最古の文献『諏訪信重解状』によれば、守屋山に天降った諏訪明神は、洩矢神と争論・合戦・力競べをして、その領地を手に入れたとある。
まさに国譲りの逸話である。朝廷での権力基盤が弱くなった物部氏だが、地方にはまだまだ大きな勢力を有していたが、洩矢神の部下であった武居大伴主神を天つ神が得意としていた陰謀で調略、簒奪後、武居大伴主神も殺されて蓼科山に葬られた。
藤原氏は古事記編纂で「科野国の州羽海(すわのうみ)まで追いつめてタケミナカタを殺そうとした。その時にタケミナカタは州羽海から出ないと約束した」と創作したのだ。
諏訪の土着神の祭祀である「御頭祭」では『鹿の頭』を神前に供える。縄文の狩猟時代からの祭祀であろう。藤原氏が神とする鹿を生け贄に捧げる文化は、当然許すことはできない。
これら理由のため藤原氏は、本当の武神であった州羽(スハ)の主祭神を貶め、信仰する鹿島神社の主祭神「武甕槌神(タケミカヅチ)」を武神とするため「古事記」を改竄したと見られる。
そのために古事記だけしか登場しない「建御名方神」と言う神を創作したのだ。
それでも武神と誉れ高かった洩矢神だが、歴史改変は朝廷のお手の物、みごとに改竄され諏訪明神とされてしまった。
まあ「ミシャグジ」=「洩矢神」=「建御名方神」という単純な図式では解決しないのが諏訪の神の不思議である。
そう言えば、私はずいぶん全国の神社巡りをしているのだが、結界でもあるのか何故か鹿島神宮には行けていない。諏訪神社を祀る地元民に対しての拒否反応だろうか。
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私が暮らす南信州にも多数の諏訪神社があり、タケミナカタの伝説を残す逸話も残っている。例えば下伊那郡豊丘村の御手形神社には、終戦の印として両者の手形の石がある。
もちろん本年は式年大祭の年、地元諏訪神社でも御柱祭が挙行されることになっている。
御柱を建てない大宮諏訪神社は式年大祭の神事と「お練りまつり」が行われる。専門家からは日本一の折紙を付けられている「東野大獅子」をそろそろ起こす頃がやってくる。
大宮諏訪神社の神輿渡御
東野大獅子(大正期)

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