今回はちょっと怖い「みさき」の話を書きたい。
柳田國男は山中大人氏との書簡で「サダ」は猿田であり、それは「ミサキ」であるとした。
そして現在、島根半島の中央で海角(岬)に社地はないが、半島は即ち「狭田ノ国」であり、かつては西にも東にもミサキが有った。故に出雲の佐陀大神は同じ神であるとした。
そして「サダ」との名称を持つ岬は、大隅半島の「佐多岬」と伊予の「佐田岬」、さらに土佐の足摺崎も亦蹉跎岬(さだみさき)だったが 船人が大隅のと区別する為にアシズリと呼んだに他ならないと断定している。つまり大きな岬は「サダ(サタ)岬」と称していたとする。
さらに岬は、単に半島の先端(崎)という意味だけではなく、外域に対する地方の境界に位置する塞ノ神(つまり猿田彦)だと結論づけている。
また柳田は「これがもし判ると、過去何百年かの久しきにわたり、われわれ常民の踏み開いて来た精神生活の進路が、およそは見当がつく」と「みさき神考」で書いており、柳田にして厄介な代物と考えていたのかもしれない。
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しかしこの「みさき」はたしかに厄介だ。
「ミサキ」を「御前(先)」として、神に先立つもの解釈すれば、普通に猿田彦大神になる。故に
八咫烏(ヤタガラス)や稲荷神(宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ))の眷属の狐は「みさき」になる。
ただヤバい民間伝承が存在するのである。
その代表が中国四国に伝承として残る「七人みさき」だ。
高知の長宗我部元親が嫡男を後継者に推したとき、吉良親実が反対したため自刃させられ、家臣6人も殉死した。その後、様々な怪異が続き、親実を供養(吉良神社)したが怪異は止まらなかった。
あるいは広島県三原市の伝承では、凶暴な山伏七人を殺したところ「七人ミサキ」となり祟りが頻発した。
愛媛県西条市木曳野に「七人ミサキ」(オタチキサン)の伝承では、 戦国時代、石川源太夫とその部下六人が伏兵にあい討ち死にした。その後村人が、死んだはずの主従七人が馬に乗って通っていくのを見た。
その他、周南市では僧侶の姿の七人ミサキが鐘を鳴らしながら早足で道を歩き、女子供をさらうという。僧侶で無く白衣の女七人の場合もある。
違うパターンでは変死した人の霊が「みさき」となって野山や川をさまよい人に取り憑く。
これらは海とか海岸、岬と全く関係ない。むしろ水木しげるが書いた妖怪「ひだる神」のようなものだろうが、まぁどれも山中で出会いたくない死霊たちである。
海関連では水死した水夫(かこ)が現れるとか、どちらかというと「船幽霊」のような海バージョンもある。
そういえば京極夏彦も七人みさきを書いていたなぁ。
いずれも見たら死ぬそうなので、皆様アウトドアではお気を付け願いたい。