日本は八百万神がいたから「和」の文化が生まれた。
日本神話で列島を作った[伊弉冉尊(イザナギ)]と[伊弉諾尊(イザナミ)]の夫婦神。とても仲が良かったのだが、「火之迦具土神(ヒノカグツチ)」を産んだ時に亡くなってしまった。恋しくてたまらないイザナギは黄泉の国に会いに行くと見るも無惨で醜いイザナミを見てしまう。まぁ1000年の恋が破れた瞬間であったろう。怯えたイザナギは慌てて逃げ出したが「見たな~!」とイザナミが追いかけた。イザナギは現世の出入り口である「黄泉平坂」を「千引きの岩」で塞さぎ、夫婦離縁の呪文とされる「事戸(ことど)」を発する。イザナミは「あなたの国の人々を1日1000人絞め殺してやる!」と言い争いをしていると、いつの間にか「菊理媛尊(くくりひめのみこと)」が出てきて、何事か一言発するとイザナミは大人しく黄泉の国に帰っていった。
これが日本書紀のみにたった1回登場する謎の神様だが、日本で初の離婚調停だったわけで、相当優秀な弁護士だったに違いない。
日本にたくさんいる神様たちは、何か事が起きたとき必ず仲裁役の神様が登場し「まあまあ仲良くやろうや」と説得するのである。前回書いた邪馬台国の設立も、戦争で無く諸族が集まり話し合いで国を作っており、「和を以て貴しとなす」と言った聖徳太子の言葉にも通じている。
だが明治維新後は国が八百万神を排除して戦いの道を選択していった。結果、たくさんの国民を殺すという無残な敗戦となったのである。
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さて件の「菊理媛尊」だが、仲裁で発した言葉は謎のままだ。作家の高田崇史は「QED白山の頻闇」で日本書紀に書いてあるとおり「有白事」と言ったのでないかと推理している。
故に「有白事」とは「白事(シレコト)が有るよ」(禊ぎをしますよ)とイザナミを諭したわけだ。つまり神話時代に「白(シレ)」は既に存在していたのだ。
菊理(ククリ)は、禊ぎをする行為そのままである。
政治家の先生方が悪いことをしても禊ぎ期間を過ぎれば復活してくる。これはまさにリセット行為で、神代の時代から現在まで日本にだけ通用する理屈なのだ。
では「菊理媛尊」は何者なのか?
このたった一度登場した媛神を主祭神とする神社がある。白山信仰の総本宮「白山比咩神社(しらやまひめ)」だ。
そもそも「白山信仰」自体が良く分からない上に、謎の菊理媛尊ときては難解この上ない。
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折口信夫の場合は愛知県の民俗芸能の「花祭り」の背景に神楽を見いだした。演目の「白山」を見て、白山の原型は「真床覆衾(まどこおぶすま)」だと指摘したのである。
この「真床覆衾」とは日本書紀に登場する。天孫降臨の際、高皇産霊(たかみむすひ)尊が瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を真床追衾で覆って天降らせたという記述があるのだ。
さらに折口は「ものが生まれるときは、全ての装飾を真っ白にしなければ生まれ出ない。そして真床追衾は「洞窟(かま・がま)」であり、洞窟の入って出ることは復活を意味するとした。
これはまさにイザナギ・イザナミと相通じる。
現在この演目はやらないので確かめられないが、白い御幣に覆われた円錐形の仲に氏子が入り籠もる。その後、山見鬼が登場し、白山を切り払うと氏子が両手に扇子(鳥の姿)に口にも扇子(稲穂)をくわえ、出てくると言う生まれ変わりの儀式をするという。
柳田國男は東北地方の「オシラ様」に注目していた。イタコが家で「オシラ様」を歓待する日は、田の神が3月に降りてきて9月に帰って行く日と同じだと着目。オシラ様=農神あるいは田の神であり、地方によっては「シラヤマ様」と称していると指摘。また沖縄八重山で採取した「シラ」は稲積みを意味しているところから、農神(穀神)と同定されると考えたようだ。
そして「シラ」は沖縄の古語であり、稲の倉と人間の産屋を顕すとして、誕生や産屋との深い関係性があるとした。しかし柳田は「しらやま」と「はくさん」の違うとの報告を受けているが、多忙だったのか、それとも「白」の意味を追求すると大変な労力を要すると考えたか、「シラ」と関係性が深そうな「白山信仰」については若干スルーした感がある。
さあ自分はどうする。この先を行くと黄泉に堕ちるかもしれない。
蘇りは「黄泉がえり」だが、イザナギのように行って戻れるだろうか?