世界遺産であるノートルダム大聖堂の尖塔や沖縄の首里城の火災焼失は誠にショックな出来事だった。その喪失感や悲しみは深いが、驚いたのは仏政府が世界中に新しいデザインの公募を決定したことだ。元通りか新たなデザインかの修復で現在大騒ぎとなったが、首里城ではあり得ない論議だろう。
とは言うものの、今では馴染んでしまった新幹線と京都駅による歴史文化の分断は、現代日本の都市計画デザインが歴史も周囲の環境も考慮しない唯我独尊の経済優先のインフラ整備ではなかっただろうか。
京都を始め伝統的な街並み景観は、歴史文化を無視した一部の建築家や大学教授の指導なのか無知なのか、道路はいずこも石畳やカラー舗装になり、デジャヴのような街並みになっているのを見ると、シビック・プライドはどこへ行ってしまったのかと悲しくなる。
古民家や歴史を垣間見ることができる施設の解体という話も各地で聞くが、古いものを潰して新しいものを建てることが良いという昭和の価値観は今も横行している。
地域風土や暮らしに根ざした家屋は、次世代に継承していくことが大切だと思うのだが、地域の発展を阻害する無駄なものと捉えられ潰されていくのは実にもったいない。
風土文化から派生する価値創造をしていないケースがあちこちで見受けられる。
ヨーロッパの古い街並みは写真を見ただけで行きたいと思ったことがあるだろう。
その佇まいは本物の歴史そのものであり、エセ伝統建築物や街並みでもなく今も暮らしが息づいているからだ。
デービッド・アトキンソン氏は「日本文化は大きな資源価値ある。維持するには訪日外国人に支えてもらうことが良い」と論じ、アレックス・カー氏も大好きな日本の景観や街並み、建築、文化を継承していくことが重要だといっているが、外国人に指摘される日本人の文化度はいかがなものか。
国連で定めたSDGs (持続可能な開発目標) における観光では「観光産業が生物多様性など自然環境や先住民族文化などを旅行商品として「食い物」にし破壊するのではなく、保護し産業として育成する担い手となる」と、国際機関や政府、旅行業界、旅行者に対して働き掛ける。
日本政府もSDGsの推進を積極的に行うとして、2017年6月に「文化芸術基本法」が施行され、2018年には「文化芸術を新たな観光コンテンツとして地域の発展に生かしていく」として「文化資源活用課」が設置したが、なにやら外国人や諸外国からの外圧、そして著名な有識者に弱い。
文化の保存から活用に方向転換をしたのは確かだが、地方創生の文脈から観光と経済の関係ばかりが注目される風潮がいがめない。
地域にある悠久の歴史文化を活用しよう
私は神社仏閣を見て歩くことが大好きで、たまたま伺った地域でも時間さえあれば必ず行くし、テーマ設定をして旅としていることも度々ある。
国宝や重要文化財はそれなりに素晴らしいが、国指定でなくても相当見応えがある史跡や無形文化財の祭り、民俗芸能など「お宝」が眠っているからだ。
地方における文化観光コンテンツづくりに手本は存在しない。
全国には同じ名称の神社仏閣が存在するが、お世話をする人や地域の歴史風土が違い別物だと考えていただきたい。
見える「モノ」であれば、それを拠点に地域でまだ顕在化していない豊富なリソースへ結びつければ「特別な体験」となるのだ。
伝統的な祭りも含め、日本の文化は多彩で豊富にある。
それを国内外の旅行者にフィットし、手軽で身近な存在となるような仕込みが大切だ。
もちろん作ったモノやコトが一発ヒットとなるとは限らない。トライアンドエラーで、より良い観光コンテンツに昇華させるしかない。
歴史、文化、自然、暮らしをキャッチフレーズにしている自治体が多数散見される。
狭い日本であり同じフレーズになるかもしれないが、この金太郎飴のような横並び体質はいかがなものか。
歴史文化や伝統、祭りも同様で、大義名分は抽象化しイメージだけで語る傾向がある。
大切だから残そうでは担い手はできないし、残すためだけに税金を投入するのも違和感がある。
歴史文化を観光の一部に取り込むには、文化政策と観光政策の連携が不可欠だ。
大切な文化財を観光で消費することには私も賛成できないが、大切な文化資源を観光の核として活用し、より良い形で次世代に繋ぎ持続させることに自治体の力量が問われている。
そのためには首長部局と教育委員会の内部の連携が大切となる。
施設を維持するには人件費を含め資金が必要だ。
だが公共の施設管理者は自前で運営しようとする努力が足らない。無料公開や無料ボランティアなどで適正な料金徴収を行っていないことも問題だ。
これこそ自らの地域資源、地域の誇りを貶めているのだ。
沖縄の「首里城」が火災ではスプリンクラーの未設置が全焼の一要因と言われる。これも安い入場料のため設備投資ができなかったことにある。目先の観光に追われ大切な文化財を未来に残すことに注力しなかった責任は行政にある。
人があまり訪れず維持が大変な公設の博物館や美術館の中にもキラリと光るお宝がある。展示方法や物語の作り込み、運営の改善などを行えば十分に見応えがあり活用できる機会が増加するに違いない。