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飯田の烈女「お不二」

落語中興の祖と言われる初代三遊亭 圓朝(1839-1900)の演目に「烈女お不二」がある。
実際に飯田藩で起きた騒動を脚色したものだ。
水野忠邦の片腕と言われた飯田藩主十代堀親寚は、天保14年に老中となり「堀の八方にらみ」と恐れられた人物だった。

しかし江戸藩邸奥向きの老女若江が秘書役から次第に権力を握り、跡目まで口を出した。国家老は親寚に若江の放逐を迫り放逐をするも井年後には豊浦と名前を変えて召し抱えた。

美人ではなかったそうだが、堀家随一の名君とされ老中まで勤めていた藩主がこれほどまで執着したのは、相当の才女であったのであろう。

豊浦が表裏の実権を掌握する中に、飯田藩士山口弾二の娘ふじが奥入り、次期藩主の手が付いた。ところが正室は水野忠邦の妹であり側室などは許されない。上屋敷にも上がれなくなったふじは豊浦への怨みを募らせるなかで、その豊浦は若山と改名し御年寄に昇進し、ますます表向きのことに公然と口を出すようになる。

天保10年9月、怨みが募ったふじは若山を刺し、飯田で処刑されることになった。網籠で飯田に下ると、飯田の獄舎にはふじへの差し入れが山のように届いたという。

理由は恨みなのに国元では、若山の専横をつぶした英雄となっていたのだ。

助命嘆願が江戸表へ出され、藩主も若山の専横があったことを認め、ご赦免を命ずる。

この当たりは相当の脚色がされたのだろう。初代圓朝の語りは聞いたことがないので分からないけど、最後のこの場面は凄かったんだろうな。

”不二の赦免を伝える早馬が国元へ走る。「その処刑~~!待て~!」

しかし早馬は間に合わず、使者が刑場へ到着したときは打ち首にされた後であった。“

その圓朝の演目に「文七元結い」もある。もちろんこれも飯田の水引の話だ。

お不二 長源寺 鐘楼

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