菅江真澄は民俗学の祖として顕彰されているが、私は自然や文化を探索し住民と交流する旅の先駆者として真澄を取り上げることとした。
さて天明三年(1783年)2月末、ちょっと信州の友達に会いたいと思いついたように故郷を出立した。故郷(豊橋もしくは岡崎)から徒歩で三月半ばにようやく飯田に着いており、相当なスローペースの旅である。
劇作家の秋元松代は『菅江真澄?常民の発見』(東北文庫)で、真澄は岡崎から出発したとして、現在では運行していない名古屋?岡崎?足助?飯田という長距離バスに乗り足取りを確かめている。
真澄の最初の旅レポート『委寧能中路(いなのなかみち)』はこう始まる。「私は、この日本国中あるすべての古い神社を参拝して回り、幣(ぬき?賽銭)をあげたいと思い立ち、天明3年のどかな二月の末、父母と別れ、故郷を後に旅に出た。二村山の宿を通り、我が故郷の国三河を離れ、美濃の中山を遠くに眺め、信濃の国に入るまでの道中を記した日記は”白波にうちとられたれば、すべなし”(盗難に遭ったから致し方ない)」と半月を掛けた旅はいとも簡単に閉じている。
当然長い旅路を覚悟していたわけだから「路銀」もそれなりに用意していただろう。今のようにコンビニで貯金を下ろすなどはできない時代で、いきなり出鼻をくじかれたのだから、よほど怒り心頭であったのだろうか、それとも故郷を断ち切るために要した時間だったのか。その後の詳細な日記からすると、その一言は言い訳がましい。
『委寧能中路』の前文に『二村山』と『美濃の中山』そして本文中に『尹良(ゆきよし)親王』や『良翁権現(浪合神社)』に参詣した思い出を書いており、それらから秋元はルートを推理したのだろう。
二村山(ふたむらやま)は、愛知県豊明市沓掛にある72mほどの小山だが、古来より名勝地として歌に詠われ寄稿文が残る地である。
二村山の宿は、古道の鎌倉街道にあったとされる。
(二村山の古道 鎌倉街道)
文政年間に刈谷藩家老の浜田与四郎が領内の鎌倉街道を調査した報告によれば「もと二村山とて古名顕然たりし街道のみぎり、貴人方の賛歌等数多く御座候、今は二村山の名知る人稀なり」とある
「美濃の中山を遠くに見て」とあるが、これは現在の岐阜県恵那市串原の標高733mの中山であろう。ここには吉野金峰山の中山神社がある。蔵王権現系列の金・鉄の神様だ。
しかし岡崎から豊明市を廻り飯田街道へ入ったとすると、かなりの廻り道である。岡崎?豊明は東海道を歩いて約20km強で徒歩4時間。岡崎から今の県道を通り足助町へ向かっても28kmで徒歩6時間なのだ。
とすると名所としての二村山を最初の目的地としていたのか。そして引き返すようだが鎌倉街道を歩き飯田街道(現国道153号)に入り、浪合神社も参拝したのだろうか。
このルートで美濃の中山が眺められるのは、足助町を通り過ぎた伊勢神峠しかないと推察する。
想像であるが盗難に遭ったのは足助宿ではないだろうか。このため足助宿で金策をしながら長逗留となってしまったと勝手な推理を働かせる。場合によっては宿の手伝いや得意の本草学を披露して路銀稼ぎをしたかもしれない。
前回の序で書かなかったが、真澄の実家は伊勢神宮の御師(おんし)を職としていたとの説もある。御師とは富士講や伊勢講、熊野講など特定の寺社に所属した祈祷師であったが、時代を経て参詣客の世話や案内、お札を各地に配り歩く仕事を行うようになった。伊勢講では途中の峠まで迎えに出て宿の世話や神社の案内、精進落とし、お札の手配をしてまた峠まで見送ったそうで、今で言えば総合旅行業者のようなものだ。
真澄は何度か親について信州を訪れているから、御師のPR活動に付いて廻った可能性がある。その際は檀那衆の家に宿泊し、旧知の間柄の人もいたと推察する。そこで知り合いの家を訪ね金策と宿を借りながら飯田へ向かったか。故郷に戻ろうとしなかったのは、家を出るときは相当な覚悟であったことが伺われる。
次回(掲載は定かでない)は真澄が記述しなかった足助町から伊勢神峠越え、稲武町について真澄に代わり(何と大それた)に補足したい。