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斜視(ナナメ)力のすすめ(15)

今から遡ること8年前、2004年10月23日17時56分、新潟県中越地方を震源とするマグネチュード6.8、最大震度7の大地震に見舞われました。震源地に近い山古志村(現長岡市)は、全ての交通が遮断され全村避難を余儀なくされましたが、僅か3年で約7割の村民がふるさとに帰りました。人口2千人程度で、元々過疎高齢化が進んでいた村、震災では産業を含め壊滅するという状況を乗り越えて人口が3割減で踏みとどまったことを検証できれば、これから地域がどう行動すれば良いかという羅針盤となるでしょう。

■山古志に帰ろう!
死者68人、負傷者4,795 名,住家被害12,604 棟(全壊3,175 棟,大規模半壊21,167 棟,半壊11,643 棟,一部損壊104,619 棟の大被害をもたらした大震災。上越新幹線が脱線し、上越の古い街の建物が倒壊した様子など現場の生々しい報道を記憶している方もいるでしょう。
震源地に近い川口町、小千谷町、山古志村、小国町等は日本有数の地すべり地帯であったことから、斜面の崩落などの地盤災害(222 ヶ所の林地崩壊や地滑りが発生)に伴う様々な被害が発生しました。このため震動による家屋倒壊だけでなく、土砂災害(斜面の崩落土砂や基礎地盤の崩壊等)によっても多くの人的被害と家屋倒壊等の被害が発生したのです。
山古志村は地滑り被害が甚大で、村外に通じる道路がすべて不通となり、ヘリコプターで全村避難を余儀なくされました。このとき村民のほとんどは、上空からふるさとの惨状を見て、二度と村には帰れないと覚悟を決めました。
ところが長島忠美村長(現衆議院議員)は、このままでは村が終わると即断し、村民に「3年で山古志に帰ろう」と宣言したのです。この決断が必ずふるさとに帰るという村民のモチベーションを保ち続ける力となり、事実3年で帰村したのです。
長島村長は決断路実行の人でした。村民が村に帰れるよう身体を張って東奔西走する姿に、村民は勇気と希望を持ち不便な仮設住宅での暮らしに耐えました。彼は村の恩人だと村民は口々に言いますが、平時でも緊急時でもトップリーダーの間髪入れないスピードある決断こそが、住民の支えになると証明したものといえます。
 
■自立力が養われていた村民
山古志村は3m以上の積雪を記録する豪雪地です。そこで生き抜くために力を合わせて暮らす重さを村民は自覚しており、被災後、直ちに行動を開始しました。もちろん誰かに言われ頼まれたわけではなく個々で考えて動いたのです。
実はこの相互扶助や自立の考え方は、震災よりずっと以前から育まれていました。
「いたずらに悲観したり、不安感を持たず、地域の美点を自ら引き出す努力をし、自信を持って昨日より今日、今日より明日へと一歩一歩前進することこそ肝要」と酒井省吾(昭和55年から第4代村長)は、村長に当選後ただちに“企画も村民、実行も村民”の村づくりに着手しました。
長い歴史の中で時には村内で対立や隣近所との諍いや過酷な自然環境に悩まされることもありましたが、皆で考え結束して乗り越えることで、自分が生まれ育った村に誇りを持つようになりました。そしてこの村づくり運動が「かけがいのない村」として急激な過疎化を食い止め「ふるさと」を愛し守ろう、発展させようとする“村民の意志”となり、艱難辛苦に打ち勝ったのです。
山古志村は国の重要無形文化財に指定されている伝統の「牛の角突き」(闘牛)や世界的に有名な「錦鯉」の産地です。双方とも地震により壊滅的な打撃を受け存続が危ぶまれました。山古志闘牛会会長の松井治二氏はこの闘牛を守るため、大切な牛を何頭も引き連れて山越えして大切な闘牛を助け、まだ復旧さなかの翌年4月に伝統の闘牛を復活させたそうです。地震直後には孤立した集落で、大切に育てた錦鯉を泣きながらさばいて食べたという話もあります。もう村には二度と帰れないと諦めを生んだ美しかった棚田がありましたが、現在、それら全てが村民の努力で復活再生しました。

■水没集落を見守る
河道閉塞(地滑りダム)による集落の水没。そして更なる被害を食い止めるために小学校校舎に穴を空けて緊急排水を行う緊迫した報道を覚えていますか。その集落が小籠(こごも)集落です。震災前は25戸であった戸数も3年後の帰村時に14戸となり、現在は集落ごと高台へ移転し、現在は12戸が新たな暮らしを営んでいます。そして先祖代々暮らしを営んできた集落は、復旧後に河川敷となるも家々が取り壊されずそのまま残されているのです。
 ここに長島村長と同じくらい村の恩人だと言われる松井治二区長(山古志闘牛会会長)がいました。松井氏は全村避難で一度は村を離れるものの次の日には帰り、工事現場からプレハブを譲り受けると、水没した集落が見渡せる道路の傍に仮設し、以降プレハブに寝泊まりして新聞記事や様々な資料を展示し、訪れる人たちの休憩と案内をする活動を始めたのです。そして河川の復旧が始まり小籠集落は河川敷となることが決定すると、集落の人たちに水没家屋は震災の記憶を次の世代に伝える大切な資源。できるだけ家屋をそのまま残したいと集落の方々を説得してまわりました。
現在、プレハブが建っていた場所には「郷見庵」という建物ができ、雪が降るまで毎日、お茶を出して震災の話をしようと考えていた松井氏の思いは実現しました。
松井さんの肩書きはたくさんありますが「水没集落を見守る会代表」でもあります。この会では見守る集いの一員となって欲しいと訴えています。その一文を紹介します。
「水没集落も、月日の経過とともに雨風にさらされ、冬の大雪に耐えながらも、少しずつ朽ちてきています。しかし、これが私たちの本当のふるさとです。傷ついたふるさとを見つめながら頑張ってきた。だから今の私たちがある。そして、東日本大震災のたくさんの被災者の方々も、この家屋を見て、私たちを見て負けませんと言ってくれました。私たちは最後まで水没集落を見守ります。たとえ朽ち果て風化しても、大切な家族を最後まで見守るように、見守り続けたいと思っています」
 
■ミニ直売所からコミュニティ・ビジネスへ
 全村避難から帰村・復興へのプロセスを辿る中で、小さな直売所が急増していき村民の帰村と連動し、復興の活力が満ちていったことが窺えます。2004年(震災前)に3カ所の直売所(出荷者11人)が、全村避難が解除された2007年に1カ所、翌年に5カ所、その翌年に1カ所が開設しており、2011年には12カ所(出荷者115人)となったのです。
 村内にミニ直売所が数年で乱立していくキーワードは「恩返し」と「コミュニティ」でした。
前述した松井氏は復旧・復興のお手伝いに来てくれた人や様子を見に来てくれた人に、お茶を出したいとか漬物でも食べていって欲しかったと言っており、他の方の気持ちも「被災直後から全国の皆さんに大変お世話になった」「自分たちが元気ですと伝えることが全国の支援者に対しての恩返しをしたい」「全村避難した村は生きている。美しい景観は戻ったと全国に発信すること」と全てに感謝して言葉が上がったのです。
もう一つのキーワードは、農家レストラン「多菜田」の五十嵐なつ子代表が「住民が村に帰ると同時に自然発生的に地場の野菜等を扱う場所ができた。救援物資を分ける拠点になっていたところが多かった」、農産物直売所「幸福市(ふくいち)」の星野吟二代表は「自分が避難先から帰村した時は3軒しか住んでいなかった。皆、食べ物を取りに来いよ?と声をかけて励まし合う場だった場所がこの直売所」と言うように復興の際の集落コミュニティの再生として必然的に生まれたわけで、通常の直売所開設から言えばレアケースであったことが分かります。

■山古志から学ぶことと課題
地域活性化の切り札になるとして、グリーンツーリズムや農産物直売所、農家レストラン、農産物加工販売を推進してきました。コミュニティ・ビジネスとして経済効果を高めるためです。とは言っても地域づくりとビジネスは表裏一体です。ビジネスノウハウの前に自分たちが暮らす地域をどのようにしたいのか、住民が自ら考え行動する意識改革を指導してきました。ところが村民は未曾有の災害から全村避難の経験を糧に、自分たちがそれまで何気なく送ってきた山古志での暮らしの素晴らしさをあらためて自覚し、再生するために豪雪で困難な暮らしを強いられる山古志に帰ることを選択したのです。つまり山古志のコミュニティ・ビジネスは、現在の自分たちはどう生きていくかを示したもので、私が今まで想定していなかったコミュニティ・ビジネスであり、カルチャーショックそのものでした。
復旧・復興を進めた人々の精神的よりどころは、山間・豪雪の困難な地で、地域の人々と協力して、農産物や加工品を共同で生産し販売するというコミュニティへの帰属意識であり、そこに自己の存在意義を見出す、「山古志人」としてのアイデンティティであったように思われます。都市部から嫁いできた女性たちが「この村の人は温かい。困ったことをいつでも相談できる」と話すことからも想像できます。山間の農村集落にとって働くことそのものが暮らしであり、コミュニティを守り支え合い楽しく暮らすソーシャル・ビジネスであったのです。
 しかしこの強固なアイデンティティは一方で両刃の剣と一抹の不安を感じました。
地域づくりは見事な成果を上げ、地域づくりの拠点ができ、受入施設や直売所などコミュニティ・ビジネスで成功したかに見えますが、過疎高齢化は止まっていないのです。次世代が帰ってきて暮らしが成立するだけの経済的な豊かさに至らないのです。しかも自分たちは儲けることは考えないとビジネスベースでの展開を否定しているからです。
松井氏は「震災による全村避難の経験は、何気なく毎日を暮らしてきた自分たちの暮らしを見つめ直す大きなインパクトとなった。自分たちは先がないから良いが、経済的に成り立たない村で若い者に住んで欲しいと言えない。この場所が必要と思えばその世代の人が考えてくれれば良い。自分は川の中で徐々に朽ち果てていく我が家を静かに見守り、風化していく事実を伝えるだけだ」と非常に重い言葉が出ました。壊滅した村を再生するために村に帰り、立て直してきた経験に基づくもので、持続できないから駄目だ!と頭から否定できません。なぜなら地域は地域に暮らす人の考えに委ねるしかないからです。
 このことは全国の地域が内包している矛盾といえますし、東日本大震災の被災地や特に放射能汚染に悩まされる福島県にとって、地域・集落の共同の労働と暮らしの場を蘇らせることができるか、地域文化を復活させられるか、重く大きな課題がのしかかっています。

■人は「土」に生きる
人間は「土」に触れていることで生きられることが仮設住宅暮らしで証明されました。
避難生活で心が折れかけていたとき「こんな事じゃいけない。なんとか前を向こう」と、仮設住宅でポットに野菜を植え収穫をするという震災前の普段の暮らし方を始めたのです。やがてそれは仮設住宅付近の農地を借りるに至ったのですが、共同作業を通じて、村民は食べる物を共につくるコミュニティを再構築することができました。
全てを失いともすれば心が折れかかる中で、絶対に生きて村に帰るという信念は、まずは自分が心身共に健康でなければいけないと考えた結果であり決意の顕れでした。もし「土いじり」ができなかったら、果たして3年で村に帰ることができたでしょうか。
この成果は東日本大震災で仮設住宅暮らしをする高齢者に活きました。日経新聞(2012/9/13付)によると、避難生活で心肺機能低下や歩行困難、鬱などの症状を引き起こす「生活不活発病」になりやすく防止には屋外活動をすることとし、仮設住宅周辺の農地を借りて耕作するという記事が掲載されました。
ここに山古志の子どもたちが作詞した「ありがとう」という歌があります。

悲しいときにあの人は あったかい握手してくれた
うれしかった やさしかった ふるえるほど ありがたかった
何かお礼をしたいけど 心を込めてありがとう
上を向いて歩こうと 一緒に歌ったあの夜
涙拭いた 希望がわいた ふるえるほど ありがたかった
諦めないよ 負けないよ 手紙を書くよ ありがとう
人は誰も一人では 生きていけないものだから
人生の宝物 ふるえるほど ありがたかった
いつかはきっと人のため きらり輝く人となる 
何かお礼をしたいけど 心を込めてありがとう

被災地をどのように復興させるか。過疎山村をどうしたら解消できるか。すべては地域の子どもたちをどう育てるかの「大人の学び」にかかっています。

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