いつの頃からか、「公」=「行政」と捉えられるようになってしまったのだろうか。
本来「公」とは、私を超えた共同体に属するもの、偏らず公平であること、そして社会全体に開かれた価値や領域を指す概念である。
しかし日本では古くから「お上」が「公」を体現する存在として定着してきたように思える。
政治家や公務員が「公務」や「公的」といった言葉を多用し、施設や社会教育の場でも「公民館」と称するのがその一例だ。
近年、行政は「協働」という言葉を口にするようになった。
しかしその内実は、“お上の権限の一部を住民に委ねて、あとはお願いね”という姿勢が透けて見えることも少なくない。
本来であれば国や自治体が責任を持つべき業務が、過疎地域であろうと一律に課せられ、現場は業務過多に陥っているのが実情だ。
政権の都合や人材不足、財源不足を理由に、住民に負担を転嫁していないだろうか。
孔子は「公」を「私欲を離れ、全体のために尽くす態度」として重視した。
そうした意味で、住民もまた「公」を担う一員である。
ここで改めてはっきりさせたい。
公とは「みんなのもの」である。
個人や特定の集団を超え、共同体全体で共有される価値観として「公」を再確認するとき、地域は地域らしく持続していけるだろう。
「公とは誰のものか?」という問いを立て、日々の暮らしや地域運営の中で実践していくことが欠かせない。まだ住民主体の「公の文化」は十分に根付いてはいないが、その芽を育てていくことこそ、これからの社会に必要なのではないか。

