寛政8年(1796)3月1日、真澄は鬼沢村にいた。
“いまでも大人(おおひと)というものが岩木山の北赤倉の岩屋に住んでいて、ときにみかける人がいるという。また、あやしい物語であるが、村長太田藤左衛門の家に、鬼のへそというものを、遠い先祖からもち伝えており、その家には上窓がなく、また節分には豆まきをして鬼を追うこともなく”( 津軽の奥)
寛政10年(1798)6月2日も鬼沢村から岩木山に入ろうとしていた。
“ここには鬼神もかくれすんでいて、時には怪しいものが峰をのぼり、ふもとにくだるという。その身の丈は相撲の関取よりも高く、やせくろずんだその姿をみた人もあるが、それを一目見ても、恐怖のあまり病いのおこる者がある。また、それとなれ親しんで、兄弟のようになかよくなり、酒肴などを与えると、さっと飲み食いして、その返礼として山の大木を根こぎにしたり、あるいは級(しな)の木の皮をはぎ、馬二、三匹につむほどの量をかかえてもってきてくれた”
●岩木山の大人
鬼沢村には本当に大きな人が住んでいたのだろう。
真澄は村人たちが「おおひと」「やまのひと」「山の翁(やまのおつこ)」と呼んでいた。と外浜奇勝(三)で書いている。
大人の話は前述以外も日記に度々登場するが、すべて巌鬼山の麓の赤倉に集約される。
岩木山は中央が岩木山、左が鳥海山、右が巌鬼山と三つの山で構成される。
赤倉信仰(修験道)はその巌鬼山を勝手に赤倉山と呼んでいる。
この赤倉信仰は「荒吐神」(アラハバキ)伝承に繋がるが、ここでは記述しない。
“鬼沢村には鬼神の祠があり、そこに五尺あまりの鍬がある。これは、ここに田をつくろうとして水乞いの祈りをしたとき、一夜のうちに山の水が逆に流れでて、山田にもせきができてはいった。そのひいたあまりの流れは赤倉に落ちてゆき、行方はどことも知れなかったという”
村では田の水に苦慮していたところに、大地震が発生、一夜で河道閉塞により土砂」ダムができ、流れが変わり、新たな川ができたのかも知れない。
鬼沢菖蒲沢地区にある「鬼神社」は、前述の鬼を祀ったとされる。社伝では延暦年間に坂上田村麻呂が岩木山麓に当社を勧請したとある。
またまた田村麻呂礼賛だ。
農民が、岩木山中の赤倉で鬼と親しくなり相撲を取って遊んでいた。鬼は自分のことを『誰にも言わないように』と約束を交わしていた。ある時、弥十郎は水田を拓いたが、すぐ水がかれてしまうので困っていたところ、話を聞いた鬼は赤倉沢上流のカレイ沢から堰を作って水を引いてくれた。村人はこれを喜び、この堰を鬼神堰とかさかさ堰とよび、鬼に感謝した。
こうした伝説からか鬼神社の社額の「鬼」の字には上部のノがない(角が無い)。
社額の両側には大鎌や鍬などの農業に不可欠な道具が奉納されている。
それを鬼の伝説として残したと考えれば納得がいく。
伝説や伝承はまったくのゼロから生まれることは無い。何らかの森羅万象の大きな出来事があると、それを話として残した。口伝で伝える伝承は当然ながら時代を経て変節し、様々な伝説が今に伝えられているのだ。
●鳥居の鬼
アイヌを鬼(化け物)とした話はあるが、この話以外、真澄は津軽で鬼にまつわる伝説は書いていない。
津軽には村の鎮守様と思える小さな神社の鳥居に鬼が鎮座する。
約30~40神社にあるらしいが全てを見ていないので、把握はできていない。
地元では「鬼っ子」と呼んでおり、それぞれ愛嬌がある姿を見ることができる。
祀っている神様は同一ではない。
由来は不明だが、岩木川流域に集中しており、川を作ったりせき止めた鬼伝説とリンクしているように思える。
現在でも同様だが自然災害から生活を守りたい。豊作を願う。疫病からムラを守る。
毎年一生懸命祭をしても災害はやってきた。
「あれほどお願いした。貢ぎ物もした。なのに神も仏も助けてくれなかった」
と村人はメジャーな神様に対して明らかな不信感を持ったに違いない。
どの神が信頼足り得るか、被災したであろう村人は考えた。
「そうだ村の鎮守様をサポートする強力な「何か」を加えよう」
そこで伝説でも村を助けてくれた信頼できるのは鬼しかないと民間信仰が選ばれたとすれば納得がいく。古来から神社の神様とは別物の魔除けとして存在していたからだ。
真澄の日記には出てこないので「鬼っ子(鬼コ)」を見ていないわけで、この風習は真澄以後に登場したとみるべきだろう。