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吉田松陰と津軽半島

  “学問をする眼目は、自己を磨き自己を確立することにある”松蔭
 精力的に日本各地を旅し、外国船に密航した吉田寅二郎(のちの松陰)は、安政6(1859)年10月27日に伝馬町牢で斬首された。享年30歳であった。
 嘉永4年(1851)の旧暦12月、松蔭は北方の海に西欧列強の船が出没することを知り自分の目で確かめたいと、宮部鼎蔵(元治元年に池田屋騒動で新撰組に襲われて自刄)と共に江戸藩邸を無断で出奔し東北へ向かった。
吉田松陰
 日本近海は以前から、米国などの鯨を捕る船団などが水や食糧の補充で頻繁に訪れており、釜野沢稲荷には船絵馬に混じり、異人の姿が描かれた絵馬が奉納されている。

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 それが漁船でなく軍艦がうろつき始めたのが嘉永年間であり、松蔭はこうした状況を知り日本の海防の現状を視察しようとしたわけだ。
 約4ヶ月、140日間に及ぶ視察を記録した『東北遊日記』が今も残されている。
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 手形も持たず、ろくな交通手段が無かった時代、真冬に津軽半島まで出かける行動力は凄いものがあるが、真澄はその60数年前に遡る天明8(1788)年に、松前に渡航しており、真澄の行動はさらに破天荒極まりないと言える。
 真澄と松蔭の共通点は、知識ではなく熱い志だろう。
 嘉永5(1852)年、2人は小泊から海岸沿いに北上し途中から山道に入った。
 当時の津軽藩は旅人がこの道を通ることを禁じており、もちろんまともな道は存在しない。
 雪深い山谷を何度も超えてようやく算用師峠を経て三厩の海岸に出た。
津軽図
 津軽の海岸線は50里(一里約4kmで200kmか)で、小泊や竜飛など9カ所に砲台を設置、三厩と平舘には守備隊も置いていた。
 袰月(ほろづき)に宿をとった松陰は、津軽海峡を外国船が堂々と往来しており、数日前も1泊して立ち去ったと聞き、日本が清国のように侵犯されると怒った。
 翌日、松陰は警備の検分と称して平舘台場を視察した。
「大砲が7個あるが普段は備えていないが、下北半島とわずか3里の海を隔てたこの要衝の地に砲台があるのは すこぶる良いと日記に書き残している。
 外ヶ浜町の「平舘台場」は、弘化4(1847)年に平舘に異国船が現れ、乗組員が上陸したことをうけ、弘前藩が嘉永2(1849)年に慌てて設置した砲台である。
 現在、青森県指定文化財となっている「平舘台場跡」は高さ2.3mの扇型の土塁に囲まれ、7つの砲台跡が残っている。
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 話によれば外国船に砲撃を加えたが、まったく届かなかったとか。
■これ事例あるの?
 松蔭は長州砲(嘉永年間に鋳造された青銅製のカノン砲18ポンド砲)など役に立たないと感じたに違いない。(当時の諸外国の船は鉄製アームストロング砲で、前近代的なカノン砲ではまったく歯が立たなかった)
 清国が敗れたアヘン戦争を肌で理解し、国内の海防事情がいかに脆弱かを悟ったのである。
 長州藩は文久3年(1863年)5月、馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えたものの、半月後の6月、報復としてアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し壊滅的打撃を与えた。
 23歳の若者が身命を賭して東北を視察し、長州藩幕閣に進言していたはずだが、その言を受け入れなかったのだろう。
 後の嘉永6(1853)年には浦賀沖にペリーが率いる4隻の艦船が現れ、江戸幕府が大混乱する黒船来航として歴史に残った。
 余所はどうしてる?とか、とにかく優良事例を聞きたがる方がいる。
 事例を聞くのは良いが参考程度にしかならない。
 かつ耳学問で自ら現場も見聞しないのは論外だ。
 もちろん二番煎じは本家を越える事など皆無である。
 真澄はあらゆる書物を読み記憶していたが、とにかく自らの耳目で現場の実態を確認し記録していた。
 松蔭は見聞してその身に体感することでこそ、自分の学問・知識を深める事ができると言っている。
 初めてのことはリスクがあり、自分は責任を取りたくない。
 失敗はしたくないではイノベーションなど起きるはずもない。
 松陰が処刑される10ヶ月前に書かれた詩に、次のような一節がある。
”人事通塞あり、天道豈に敢へて疑はんや”
 人の為すことはうまくいったり、いかなかったりするが、自分は決して天道を疑ったりはしないと言う意味だ。
 昨今はリスキリングと言う言葉に頻繁に出会う。
 24時間働けますか!と煽ることはあっても、人間としての教育は現在、ますます不足している。
 相変わらず人材力の向上に力を入れず、政治経済の経営層に都合の良い歯車を生産しているばかりだ。
 実際に今の様々な現場が衰退したのは政治や企業トップの無為無策が要因だが、これからは実学をおざなりにせず、もう一度ゼロから現場力を「鍛え直す」必要がある。
 リスキリングは単に労働力移動を促すものとするのではなく、未来に本当に不可欠な人材を創出する方向に動いてほしいものだ。

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