“いそやかたを過るに、女の声にうた唄ふを近づきて見れば、あさり貝ほりとる也”
――透き通るような良き声じゃ。
海風に乗って聞こえて来るのは女が唄う浜唄だ。
目をこらすと海岸で少女がアサリを採りながら唄っていた。
万葉集研究の第一人者の森山弘毅は「歌の場」の膨大な描写は、それぞれがその風景の中の一点景として
捉えられる近世村落のリアルな『唄う風景』であると論じている。
1.菅大神にぬかずく
街道を行くと狩場沢から陸奥湾沿いを離れ、一端、山側に折れる。
――坂道を登った先にはたしか天神様の祠があったはず。ちいと寄っていこまい。
と久しぶりのひとり旅で、うっかり三河弁の独り言が出る。
真澄は自ら「白太夫」の家系と名乗っている。
白太夫は伊勢神宮の宮司であり、『日本書紀』に登場する菊理媛(くくりひめ)を信奉する家系とされる。
世継ぎを願った菅原家の祈祷を白太夫が行い、菅原道真が誕生したとか、都から「飛梅」を太宰府まで届けた等々の伝説がある謎多き人物である。
東北学で知られる赤坂憲雄は「白太夫の子孫が気に掛かる。シラの系譜を中世の白比丘尼・白拍子・白鬚明神から白神山へ、さらには三河の花祭りのシラ、穀物の霊魂にかかわるシラ、東北のオシラサマへと辿り、シラをめぐる精神史を思い描きながら、歌舞と物語を携え歩いた巫覡(みこ)の家筋の末裔として、真澄の姿を浮き彫りにすることはできるだろうか」と自問している(真澄学第1号)
――わは天神様に縁がある。ここは素通りするわけにはいかない。
菅大神の祠は坂道を上った先の左手にあった。塀も無ければ垣根も無い。ただ祠の廻りは手入れが行き届いており、集落で大切にされていることが判る。
(狩場沢のせき屋にいたる。みな、むかし通りける道なれど、見奉らざる菅大神の祠とて、さゝやかなる、めをのはじめの石、雷斧石、雷槌石など云ふ、ことなる石どもををさめたり)
鎮守の森に囲まれて鎮座した祠には【石棒(男性のシンボルを象ったもの)】を中心に、陰陽石、雷斧石、雷槌石など変わった形の石が祀られていた。
「昔、畑耕すてあったどぎなぁ、鋤さコツンど当だった。石は耕作の邪魔者ど掘り返すと【コーヘン様】が出でぎだ。そえでこぃは大事なものどご本尊どすて奉っております」
と里人は言う。
――陰陽石が天神様か、雷神か、どこで変化したか知らないが、まぁそれは聞かずにおこう
掛巻も 畏き(かけまくも かしこき)
天滿天神の 廣前に白す(あまみつあめのかみの ひろまへにまをす)
恭 惟れば 帝道を 輔佐り(うやうやしく おもんみれば みかどを たすけまつり)
真澄は丁寧に額突き(ぬかづき)頭(こうべ)を垂れ、菅大神に祝詞を奏上した。
熊野宮の脇にあるこの祠だが現在、石棒は立派な木製の男性シンボルになっている。
因みに熊野宮の主祭神は、国産み神話の伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)で、子授かりや恋愛成就、夫婦和合、安産祈願のご利益がある。