真澄は飯田滞在中に飯田市上郷の雲彩寺(うんさいじ)で「馬鈴」を見たと書いている。
雲彩寺は我が家の菩提寺であり、真澄が桜の花見で天竜川方面に下りたおりにでも立ち寄ったのだろうか?
この「馬鈴」は雲彩寺裏の「飯沼天神塚古墳(通称は雲彩寺古墳)」の出土品。6世紀前半に築造されたとする雲彩寺古墳は飯田下伊那で最大の全長約74.5mの前方後円墳で、寛政年間に雲彩寺を建立する際に一部が削られているが、主体部の横穴式石室はほぼ残っている。遺物の多くは失われている中で、「馬鈴」と「金環」のみが雲彩寺に残った。
真澄が訪問した時にはまだ無かった山門は、明治維新で飯田城が解体された折りに移転した桜丸の西門と言われており飯田市の有形文化財となっている。
私も雲彩寺古墳保存委員会の会員だが、この雲彩寺古墳やほぼ同じ大きさで同年代の高岡第1号古墳(全長72.3m)ほか、5世紀から6世紀の古墳13基が「飯田古墳群」として28年10月に“国史跡”として指定された。
【指定された飯田古墳群】(前方後円墳11基、※帆立貝型2基)
座光寺・高岡第1号古墳、上郷・飯沼天神塚(雲彩寺)古墳、松尾・御射山獅子塚古墳(みさやまししづかこふん)、姫塚古墳・上溝天神塚古墳(あげみぞてんじんづかこふん)・おかん塚古墳・水佐代獅子塚古墳(みさじろししづかこふん)、竜丘・大塚古墳・塚原二子塚古墳(つかばらふたごづかこふん)・鏡塚古墳※・鎧塚古墳※・御猿堂古墳(おさるどうこふん)・馬背塚古墳(ませづかこふん)
飯田は東西地域を結ぶ「東山道」の結節点に位置しており、菅江真澄考14-2で書いたとおり、日本武尊や義経はともかく最澄は東国布教のために飯田へ入っている。天武天皇の時代には飯田が遷都の候補地となるなど王権の東国経営における拠点であったことが伺え、飯田古墳群の重要性が際立ってくる。
寛政10年、市岡智寛は雲彩寺古墳を調査し、「雲彩寺所蔵古物之図」として記録している。市岡家5代市岡知寛は飯田藩の家老補佐まで勤めた人物だが、真澄考11で書いたとおり、山鹿流兵学・一刀流剣術・漢学・本草学・和歌・画・茶・生花・盆栽の技と博学多才だった。
現在のようにSNSなどはなくローカル情報は、もっぱら人に会い話を聞くことしかなかった時代。知寛が雲彩寺の所蔵品の存在を認識しており、真澄がその情報を入手できたのは、飯田滞在中に知寛と会っていたと推理しても良いのではないだろうか。もしかすれば、知寛が雲彩寺へ同行したかもしれないと考えると妄想が拡がる。
市岡家については、幕末の竹村家(倒幕ばあさん松尾多勢子の生家)との関係もあり、いずれ書きます。