民俗学をかじった方や東北の方以外はご存じではないだろうが、「菅江真澄」は柳田国男が明治40年代に「真澄遊覧記」を読み感激し、大正9年の「環らざりし人」、昭和3年の「霜夜談」、さらに昭和17年に「菅江真澄」を発表。真澄という人物と著作を最初に広めた。
「真澄遊覧記といふ名称は、久しく我々も踏襲してはいたけれども、この紀行の大部分は遊覧記を以て呼ばるべきもので無かった。その特長は何に存在するするかといへば、第一には世に顕れざる生活の観察である。あらゆる新しい社会事物に対する不断の知識欲と驚くべき記憶である。小さき百姓たちへの接近である」(柳田国男が見た菅江真澄から)
しかし田中宣一國學院大名誉教授(民俗学)は、「柳田国男の”真澄発見”」で、考古学者で郷土史家あった羽柴雄輔なる人物から真澄の「齶田乃苅寝(あきたのかりね)」書写本を一読した柳田が「真澄遊覧記三十余巻内閣文庫ニ之ヲ蔵ス完本ニ非サルナリ」と付した。内閣文庫で所蔵しているものと異なり柳田が理解していたはずの真澄に対し、ますます興味を抱き研究したのは、新たな「真澄発見」をさせた羽柴の存在があってこそだと推論している。とは言うものの柳田が民俗学の祖と評したことで、菅江真澄の研究が盛んとなり地方に埋もれていた史料に光が当たったのは間違いなく柳田の功績であろう
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この菅江真澄はどのような人物だったか。資料によると宝暦4年(1754)三河国牟呂村(愛知県豊橋市)で生まれ、文政12年(1829)6月、秋田県角館市で76歳の漂泊の生涯を閉じた。
本名は白井英二らしいが、30歳となった天明3年(1783)2月末の旅立ちの時は「白井秀雄」、そのほか「白井真隅」や「白井真澄」と名乗り、50歳半ばにようやく「菅井真澄」を名乗っている。この人物の生い立ちから旅立ちまで、本人も語りたくない闇であったのか謎に包まれたままである。
実家は菅原道真の家臣であった白太夫の子孫にあたり「春星散」という秘薬が伝わっていた薬師の家系らしい。調査で判明した事実では、賀茂真淵の姻戚の植田義方に師事して国学を学び、尾張藩の藩医・浅井図南には本草学の指導を受けた。図南は真澄が旅立つ前年に没したが、義方とは東北を漂泊していたころ唯一、故郷の関係者で連絡をしていた。
故郷からの旅立ちでは「諸国の神社や寺々や名勝古蹟を訪ね歩き、その見聞したところを、故郷へ帰って父母や親しい者に聞かせたい」としているが、何やら道中手形を得るための方便と見て取れる。それはその後、信州から日本海側を北上し東北へ旅立ち、二度とふるさとの土を踏むこともなく、途中で連絡をしていないからだ。そのためか飯田へ入るまでの半月も掛けているのに動きが見えない。メモ代わりの道中日記も少しはありそうな気がするし、記憶していたはずだが、日記は盗難にあったとだけの記述しかない。さながら故郷からの追っ手を避けた逃避行のようだ。ところが飯田からは日記も絵も句もたくさん残し、東北(秋田が中心)に至っては70冊を超える紀行や随筆、またスケッチなど膨大な著作が現存する。