6次産業は風土産業をベースに思考する
諏訪出身の教師であり地理学者であった三澤勝衛(1885-1937)は、昭和初期に「今日、地方の疲弊は相当深刻である。地方の持つ文化が、その地方の風土性に立脚することを忘れて、いたずらにいわゆる都市文化を追従してきた結果であり、地方性に即した文化の建設ということが、もっとも正しい地方振興の意義」と、風土に生き風土を築いていく地域民による「風土産業」を説いて廻った。1933年に飯田市を訪れた三澤は「水引工業が農閑期の副業として経営されているのは、地域の風土が特に適しているのではなく、松尾は原料供給地と中心市場の飯田との中間に位置するため、昔から加工業を行う習慣が生じた」と、地域特性があったからこそ今で言う6次産業化ができたと論じた。
飯田下伊那は中山間地域で大規模な稲作ができない地域も多く、和紙と市田柿(干し柿)は冬場の重要な経済活動であった。産業の転換で和紙生産は消えたが、江戸時代に開発された市田柿は今でも主力加工品として位置づけられており、これは現在の6次産業の原点ともいえる。
いまさら釈迦に説法だが、農地と人を資源として農産物を生産・加工・販売することが農業経営であり、ことさら新しい言葉で制度創設しなくても元々が6次産業なのである。
ところが6次産業化と国が言った途端に有象無象の企業やコンサルが農村を跋扈しだし、風土の欠片もない新たな「一損一貧」の加工品が現れて地域ブランド品と称している。
だが果たして今、全国で開発中あるいは売り出された商品は10年後にどれほど生き残っているだろうか。
6次産業としての農業を強化するには、適地適作で美味しく品質の良いものを生産することを第一義として、規格外や捨てているものを、地域特性や歴史に学び、リユースやリサイクルを施すことで新加工品を誕生させる。そしてその過程を「もったいない」物語として付加し、環境配慮した商品として消費者に理解されるような交流事業や食の提供を行うことで、無理無駄がなく息の長い商品になるに違いない。