農家民泊という新たな宿泊形態を創出した飯田型ツーリズムには1964年より夏休みに大学生や予備校生をホームステイさせた『千代高原学生村』というモデルが存在する。
学生たちの間には夏期爽快な地方に民泊して勉強する風潮の流行がある。それは地元の人にも歓迎され、また観光のために地元が荒らされることも少ない(宮本常一,1987,P80)
当時、全国の山村で活発に取り組まれた高原学生村は、宮本常一も着目しており、農村ビジネスとしてブームとなっていた。
飯田市に合併して間もない時期に参入した千代村は、市への依存を是としない逆バネが働いたと想像できるが、一番の要因は村の過疎高齢化と経済の中心であった養蚕や炭焼き・林業の衰退による危機感であった。
1963年、千代の住民有志が、下伊那郡阿南町新野で始めた高原学生村が成果を出している様子を聞き、新野の取組を指導した新野出身の小学校校長に話をして欲しいと、持ち掛けたのが事の発端であった。校長先生の「都市の学生は劣悪な環境で学んでいる。夏休みくらい涼しく自然環境が豊かな地で、勉強をさせたい。待機している学生はたくさんいる」との熱い語りに、うちでもやろうじゃないかということになった。
次の記録が「千代風土記」にあり、当時の様子が垣間見える。
■受入事務局:飯田市役所千代支所
■受入家庭:米川集落32戸、法全寺集落12戸
受入希望家庭が「旅館業法」の「簡易宿所」の免許を取得
■学生の滞在期間:一週間から二ヶ月
■受入人数:一軒2,3人から6人
■食事形態:数軒の家を食堂に改造し保健所の許可を受ける
そして、これら条件整備を行い、直ちに関東関西の大学へ自らPRに出かけた。
初年度の1964年は学生98名という応募があり順調な滑り出しで、翌年の1965年は受入軒数が足らなくなるほどの人気で、断りを入れることやキャンセル待ちが出るほどなった。
南信州エリアでは新野から千代、そして喬木村、豊丘村と受入地区が拡大していくが、学生たちの指向は数年で勉強のための合宿という形態からスポーツ合宿の形態が中心となり、次第に来る者も減りいつしか終息していくことになる。
1964年に長野県上伊那地方事務所商工課で、上伊那地方の伊那市、中川村、長谷村の受入連絡協議会の担当をしていた「しんきん南信州地域研究所」の吉川芳夫主席研究員は、担当時期に学生村に訪れる学生数が減少し始めていたと語る。
ところがこの交流が、その後の山村が生きる道標となったのである。