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三澤勝衛の教育理念

長野県は教育県と言われるが「信州教育の水脈」によると、明治8年前後に初代筑摩県令の永山盛輝が学校の設立や就学率向上に全力を注ぎ、能勢栄、浅岡一といった師範学校初期の校長が礎を築き、大正期に「信濃教育」(信州教育)が開花したとされ、三澤が松本商業(現松商学園高校)から諏訪中(現諏訪清陵高校)に招かれ、大正9(1920)から昭和12(1937)まで教壇に立った時期と重なる。

信州教育の水脈の中で三澤は異端者とされているが、その教育姿勢は次のエピソードとして残っている。松商時代、授業の直前まで徹底的に教材研究を重ね、始業の鐘とともに教室に駆け込む。その両手には大八車に積むほどの学術資料を抱え込んでいたため「大八車」とニックネームがついた。

この教育姿勢は次の記述から理解できる。「一つの教材を取り扱うにも、その教材に対する教育者自身の深い感銘がいる。湧きるほどの熱意、強い驚異と大きな歓喜があって、初めて被教育者に求めることができる」と論じ、にわか勉強で教えてはいけない、事前に教材研究をしないものは教育者として失格と言わんばかりで、教育者が受動的すぎると論じ「時間的余裕のきわめて少ない方々もいるだろうが、急がば回れで対象を凝視すべき」と主張した。諏訪中時代にも黒板を書き写し、講義録をノートにとると「俺のしゃべったことを書いて何になる。自分の頭でよく考えろ」と一喝した。

「教育というものは教えるのではなく学ばせるもの。背負って川を渡るのではなく、手を曳いて川を渡らせるのである。要は魂と魂との接触でなくてはならない。すなわち魂に触れ得る教育でなくてはならない」と論じた。“学校とは考えるところである”これが三澤の教育理念であった。

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