一覧菅江真澄考

猿田彦(道祖神)は道教の神

先日、哲学者の内山節さんに、猿田毘古神(サルタヒコ)はどういう神様かと質問したところ道教の神でなかろうか?と答えてくれた。
猿田毘古神(猿田彦) は宮崎の高千穂に降臨した天孫降臨の道案内をした神だ。
穂高神社の餅つき道祖神
その姿は大きな鼻に赤い顔と「天狗」に比定される異形の姿で、中韓や日本人ではない。
 これだけでも、外つ国からやってきた神と分かるが、道教(キョンシー退治をする道士の教義)は、元々中国で発生した宗教だが本国では絶滅状況と聞く。
 老子を祖とする道教は、その老子を「太上老君」として最高神としている。太上老君
 後漢滅亡後、呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六朝時代(随が建国するまで)後半に仏教や儒教が一般化していった。
 その道教と日本の古神道や密教を融合させたものが、かの安倍晴明が確立した陰陽道だ。
安倍晴明
特に星見(天体観測)や暦づくり、卜占など道教の影響を色濃く残す陰陽道が、庶民生活に根を下ろしていく中で、猿田毘古が導きの神となり、ムラの境に置かれる塞ノ神・道祖神になっていったと推理すれば納得がいく。
 真澄は道教とか陰陽道の記述はないので、学んでいたとは思えない。
 ただただ面白いコトとして民の風習や祀りを記録しただけなのだ。
●巨大な藁人形道祖神
 真澄は秋田で様々な「人形道祖神」を調査し記録している。
 例えば大館市雪沢地区の「ドジンサマ(ドンジン様)」と言われる男女の赤く塗られた木像を見ている(おがらの滝)
 真澄は「避疫神」として図絵に残しているがまさに塞ノ神であり道祖神である。
 名称の「ドジンサマ」は漢字にすると「土神様」なのだろう。
 一体だけで双体道祖神ではない場合もあるようだ。
この「ドジンサマ」と同じ役割(疫病侵入を防御)する「カシマサマ」(あるいはショウキサマ)という大きな藁人形もある。
 真澄はその「カシマサマ」を大仙市隣の三郷町の本堂城跡で見て記録している(月の出羽路)
 例年12月上旬頃に行われる「ジンジョ祭」を真澄は見ている。
 神輿や山車をぶつけ合うのはよくあるが、この祭は町内を歩き回り「ジンジョサマ」と言われる人形をぶつけ合う奇祭のようだ。
 祭の前の「八皿の儀」と言う神事を真澄は書き留めた。
 小さな7つの盃の酒を注ぎ、それを大きな器に移して飲み、無病息災や豊作を祈願の行事だという。
 こうした神事も人形道祖神の祭りの中で現在も行われている。
 また前回の「津軽の虫送り・さなぶり」で書いた「さなぶり団子」と似た風習が秋田にある.
 山吹の枝と笹に米を載せて魔物の侵入を防御する「マドフサギ」と魔除けの呪いだ。
 筆者も真澄がスケッチした「軒の山吹」を秋田県立博物館の隣にある「旧奈良家」住宅で再現しているのをみた。
旧奈良家・軒の山吹
 事ほどさように田植え後の行事は多様化、拡散していくが、疫病や大飢饉などで生死を彷徨った民衆の祈りが為したものだろう。
 実は前回の「津軽の虫送り・さなぶり」で写真を掲載した二体の大きな藁人形は、青森県内で唯一残る十和田市の人形道祖神だったので、改めて修正しておきたい。

DSC_1134

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我々の先祖は、狩猟採取の時代から森羅万象を畏怖し敬い、今日の糧を得たことに感謝して生きてきた。
 もちろん神様は「山の神」で、稲は中国からの輸入でも神までは招いてはいない。
日本は様々な宗教や学問、民間信仰など受け入れてきた。
しかしその全てを咀嚼し、八百万神の中に封じた。
真澄のまなざしは神と仏は分けず、神仏も自然も伝承も同じテーブルに載せ、そうした民衆の祈りや自然、伝承などそこにある事実を淡々と書き留めている。

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